2017年04月28日

中東に平和を! 76 なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2

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< 1.ベルギー国王レオポルト2世 >


冷酷非情には見えない王が遺したもの。


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< 2. ベルギーとコンゴ自由国 >


黎明と悲劇の始まり
ここには14世紀から続く人口200〜300万人のコンゴ王国があった。
1482年、大航海時代に先鞭をつけたポルトガルがこの王国を発見し、両王国は国交を開始した。
コンゴ王はカトリック教徒となり、西欧文明(技術、制度)を積極的に取り入れ始めた。
しかし奴隷商人が暗躍し、銃入手の為に奴隷狩りによる抗争が部族間で激化した。
次の王は奴隷貿易に危機感を持ちポルトガルに訴えたが無視された。
やがて王国は拡大する奴隷狩りと銃の蔓延、度重なる王位継承戦争で疲弊の度を深めていくことになる。

しかしこれは惨劇の序章に過ぎなかった。
やがてポルトガルは撤退し、17世紀にはいるとフランスが進出し、奴隷と象牙の貿易を行った。
西欧は産業革命を経て、奴隷貿易が衰えた19世紀末になると、各国は最後に残ったアフリカで植民地の獲得競争を始めた。
1884年、欧米列強はベルリン会議でアフリカ分割を決め、この地はフランスとベルギーによって分割され、ついにコンゴ王国は消滅した。


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< 3.大西洋奴隷貿易 >


この数世紀の間に、アフリカのギニア湾から連れ去れた奴隷は1000〜2000万人にのぼり、おそらくは人口の半数が奪われ、社会は大打撃を受けた。

コンゴの大半を占める東側の地はベルギー国王レオポルト2世の私有地(コンゴ自由国)となった。
当初、国王は近代化を推し進めたが、赤字になると暴政へと転換した。
現地住民は奴隷にされ象牙やゴムの採集に徹底的に使役された。
当時、植民地で収奪することが当然の欧州諸国においても、この暴政は非難の的となった。
しかたなくベルギー政府は国王からコンゴを買い取り、植民地ベルギー領コンゴ(1908年 - 1960年)となった。

一方、西側の小さな地はフランス領となった。
フランスはコンゴの開発を白人企業にゆだね、白人企業は徹底した搾取を行った。

これらの暴政が社会を荒廃させ、独立しても暴力と独裁が横行する国家となる道筋を準備した。


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ベルギー王の暴政
コンゴ自由国(1885-1908)において、王は象牙とゴム取引を独占し巨万の富を得た。

当時、自動車タイヤ用にコンゴの天然ゴムの需要は旺盛であった。
後半の8年間でゴム生産量は24倍になったが、これは先住民の過酷なノルマ制によるものだった。
ノルマを達成出来ない住民は手足を切断された。
また人口は当初の3000万人から900万人にまで減少した。
殺された人数はユダヤ人虐殺(ホロコースト)に匹敵した。

王が創設した軍は白人の将校が指揮し、兵は先住民の戦士や奴隷からなった。
この軍の目的は治安維持ではなく、国民(奴隷にされた先住民)を酷使する為であった。
軍は国民を鞭打ち、従わない者の婦女子を誘拐し、村を焼き払った。
兵は討伐時の弾薬使用の証明として切断した手を上官に提出しなければならかった。
これは銃弾の無駄遣いを防止する為であった。

また王は領土拡大を目指し、南部(ザンビア)の部族長が英国の国策会社と手を結ぶと、軍を送り彼を射殺し、傀儡を据えた。

次回に続きます。


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2017年04月26日

平成イソップ物語 16: 蜘蛛と花



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ある所に花々が咲き誇る谷がありました。


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花たちが悲鳴を上げています。

「キャー、私の体(葉っぱ)が青虫に食べられている。」

花たちが困っていると、隣の木立の中から声が聞こえました。

「私達が助けてあげましょうか?」

「蜘蛛の巣であなた方を覆ってあげれば、青虫が蝶になって飛んで行くとき、捕まえることが出来ます。」

「もうこれで青虫はあなた方に着くことが出来ない。」


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花たちは言いました。

「蜘蛛さん、ありがたいのですが、一つお願いがあります。」

「蜘蛛の巣の目を大きくして、小さな蝶は通れるようにしてください。」


蜘蛛は答えました。

「それは簡単なことです。それではさっそく蜘蛛の巣を張りましょう。」


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その後、大きな蝶と大きな青虫の姿が消え、替わって小さな蝶たちが受粉してくれたので花は咲き続けることができました。

しかしさらに月日が経つと、その谷から花は消え、蜘蛛の巣が野原を覆うようになりました。

それは蜘蛛たちが増え、蜘蛛の巣の目を小さくした為に、小さな蝶も捕まえてしまったからだとさ・・・・


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おわり。


注釈1.
これは日本政府が米国家安全保障局(NSA)に協力して、国民を監視している状況を揶揄したものでは決してありません。
純粋に自然界の摂理を謳いあげたものです。
他意はありません。
どうかこのブログも監視されていないことを切に望みます。
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2017年04月25日

海外旅行のすすめ 4: 初めてのヨーロッパ 3

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今日は、北欧の企業見学でわかった事、また北欧と日本の違いについて書きます。


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企業見学
私達はデンマークの2社、スウェーデンの2社を訪問しました。



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< 3.デンマークの2社 >

デンマークの2社は先端技術を生かして中規模ながら世界を相手に活躍していました。
Brüel & Kjærは音響計測器メーカーで、Dantec Dynamicsはレーザー測定器メ―カーです。

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< 4. ASEA社 >

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< 5.Sandvik社 >


スウェーデンの2社は良く知られた大企業でした。
ASEAは電機メーカーでロボットメーカーで知らています。
現在は合弁してABBグループの一員です。
Sandvikは製鋼や建設機械製造を行っているが、超硬の切削工具でよく知られています。


感銘を受けたこと
Dantec Dynamicsについて話します。

従業員は350名ながら、世界相手に自らの販売網を持っているとのことでした。
当時、製造の人員は175名で開発に70名を擁し、先端技術のシーズを追及していくとのことでした。
そして現在も活躍している。

工場内の電子回路ユニットの完成品検査を見て驚いた。
10名ほどが一つのテーブルを囲み座って検査をしており、彼女らはユニフォームを着ておらず、その作業はのんびりしていた。
日本なら、ユニフォームを着て、流れ作業か、各自バラバラに座り、時間に追われるように作業していただろう。

私はこの作業風景に疑問を持ったので質問した。
管理者の返事は、作業者の尊重と完全な検査を最重視しているとのことでした。
この企業は大量生産品を作っていないこともあるが、他の工場見学も併せて考えると、北欧の労働慣習はやはり日本と大きく異なる。
日本には、ここまで労働者を尊重する文化は無い。
一つには、日本は大量生産体制で安価を売りにする企業が主流だからだろう。
最もこれを可能にしているのまた日本の文化(強い帰属意識)だろう。

最後に、外注比率について質すと、驚いたことに、外注比率がゼロだと言うのです。
日本の産業は、大企業と多数の下請けの小企業からなり、二重構造と呼ばれています。
私は北欧全体の産業構造について確認していませんが、様々な観察を総合すれば日本のような二重構造が生まれる余地は無いように思えた。
日本の二重構造は戦時中に作られた軍産一体化に始まるのですが、これが生き残り続けるのは北欧と異なる日本の社会意識(労働者意識)の低さにあるのだろう。

この視察旅行で、私は大いに感銘を受け、また幾つかの疑問を解消し、国の違いについて理解を深めることが出来ました。
しかし残念なことに、この時に知り得たことを企業で利かすことが出来ず、また現在の日本は北欧の水準に近づくどころか差が開いている。
例えば、2015年の一人当たりのGDP(購買力平価ベース)ランキングはスウェーデン9位、デンマーク14位に対して日本21位です。
日本の時間当たりの労働賃金は更にランキング順位を落とす。

当時は北欧と日本の違いに無念さを感じたが、いつかは良くなるとの希望を抱き帰国したものでした。


北欧の視察から学んだこと
私はこの視察旅行に出発する前、スウェーデンに抱いていたイメージは、「フリーセックス」と「福祉国家」ぐらいでした。
当時のマスコミの流す情報がそうでした。

しかし3日間ほど現地を巡っている間に、人々の意識に男女平等と権利の尊重(労働者)が根付いており、それが共稼ぎや家庭重視に表れていると感じた。
このことが一人当たりのGDPの高水準に結びついているのでしょう。

さらに北欧全般について言えると思うのですが、知識や科学を重視しこそ寒冷気候の狭い農地で暮らしていけるのでしょう。
現在、スウェーデンの穀類の自給率は高い生産性により120%ある。

またスウェーデンの福祉政策を知ることが出来ました
当時、高齢者はそれまでの住居を離れ専用の建物の個室に住み、世話を受けるシステムになっていた。
私は一人暮らしの寂しさを少し感じたが、不安のない老後を提供出来る国を羨ましく思った。

「彼らは日本のようにあくせく働いていないのに、この違いはどこから来るのだろうか?」と思ったものでした。

この福祉国家への道は、19世紀末から徐々に労働運動によって盛り上がり、議会制民主主義によって選び取ったものでした。
また第二次世界大戦では、兵力と中立外交で、戦わず他国に侵略されることなく、無傷でいられたことも幸いしている。
彼らは運が良かったわけでもなく、富に恵まれていたわけでもない。

現在、スウェーデンの福祉政策は幾つかの反省から介護サービス主体に変わっているが、介護の主体が家族ではなく地域社会で行う姿勢は変わっていないようです。
日本はこのスウェーデンの介護システムを参考にしたはずです。

残念なこと
北欧二ヵ国を巡って残念に思ったこと、実は日本のことなのですが。
この北欧の体験は、私の励みになり、また反省にもつながりました。

個人的には、男尊女卑ではなく男女平等、会社中心ではなく家族や暮らし重視の姿勢に考えさせられました。
私は団塊の世代に通じる意識から抜け出すことが困難でしたが、時折は反省するようになりました。

社会的には、日本の遅れを痛感しました。
一部しか見ていませんが、二重構造のない産業、権利擁護、福祉政策でスウェーデンは進んでいました。
そして今も日本は遅れたままです。

さらに加えて残念に思うのは、皆がこのスウェーデンの良さに無関心で誤解さへしていることです。
周囲の人と話していて感じることは、外国の良さを指摘する度に反論されることが多い。

「ここは日本で、日本流のやり方が似合っている。当然、日本の方が素晴らしい。」

海外に行ったことも無く、外国の長所欠点を知らずに思考停止するのは残念です。

外国と日本の違いを知ることで、日本を良くするには何をすべきが見えてくるのです。


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< 6.幸福度 >
 
もう一つ気になるのは、行ったことも無いのにスウェーデンを否定的に見ている人がいることです。
私の推測ですが、米国寄りの保守的なマスコミはスウェーデンなどのような社会主義的な国や福祉国家を低く評価し報道しているようです。
こうすれば、幸福度などのあらゆる重要なランキングで日本が日を追って低下し、北欧などに差を開けられることから目を逸らすことが出来ます。

当然、スウェーデンにも欠点はありますが、自ら社会を変革し国民の幸福度を高めて来た経緯とその現実を知ることは重要です。

これが私が海外旅行を薦める理由の一つです。



次回に続きます。







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2017年04月21日

平成イソップ物語 15: 「津波とモグラ」の補足

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< 1.津波で残った一本松 >


前回投稿した「津波とモグラ」が何を意味しているのか解らないとの意見がありました。
ご指摘の通りだと思います。
ここに陳謝し、蛇足ながら説明したいと思います。



私が言いたかったこと

人々は今ある恐怖や不安に囚われて、往々にして理性的な判断が出来ず、目先の安心に飛びついてしまうことがある。

これは危機を先延ばするだけでなく、より深めることになる。

この手の愚を、社会は幾度も繰り返して来ました。

そして、この傾向は今の日本や欧米で顕著です。




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ミサイル防衛について
ここ数日、北朝鮮のミサイルに関して政府や与党からミサイル防衛や日米同盟の必要性が強調されています。
この意味を考えてみましょう。

例えば、迎撃ミサイルシステム(サード、パトリオット)を考えます。
日本が無数のイージス艦を日本海に配備し、陸上配備の迎撃ミサイルを全土に20km毎に配備しようが、北朝鮮のミサイルを完全に防ぐことは出来ません。
それはなぜでしょうか?

色々、想定できますが、一つは偽装船による近海からのミサイル発射です。
北朝鮮がこの技術を獲得するのは簡単です。
こうなれば、首都ぐらいは守れても本土全体を守ることは出来ないでしょう。

この手の落とし穴や矛盾はかつての米ソの核開発競争を振り返れば歴然としています。
核兵器の進歩はその都度、米ソの核ミサイル防衛構想を無に帰して来ました、例えば潜水艦発射ミサイルの普及のように。
結局は、互いに完全に破壊し尽くす体制をとることで、互いが馬鹿な攻撃を自制するだろうと言うことに落ち着いた。
米国の核戦略担当者から見ればこれも立派な抑止力でしょうが。
そして膨大な数の核兵器を作り、現在、大量の核ゴミに困っている。

ミサイル防衛は完璧ではなく、その後の多国間のミサイル開発競争を促進させるだけなのです。
例えば、イスラエルに核兵器を持たせたことによりイランが対抗して核開発を望んだように、またインドとパキスタンの関係も同じで、連鎖し拡大するのです。
一方、完全な迎撃ではなく抑止力を高める為に核兵器を保有する話もあります。
そこには相手が良識ある判断をするものと想定している落とし穴があるのです。
例えば、狂気のヒトラーにそれを期待出来たでしょうか?
特に核ミサイルについては、残念ながら物理的な迎撃手段は絶望的でしょう。

つまりミサイル防衛システム「モグラの堤」を作って、一時期のミサイルの脅威「津波」を防いだとしても、次の脅威の発生を招くことになるだけなのです。
むしろ抜本的な手を打つべきなのです。
そして新たな危機の前兆が「地中の水の流れ」であり、新たな危機が「洪水」でした。
一番の問題は、一時の安心の為に根本的な解決策を遠ざけてしまうことなのです。
この手の愚行は、かっての世界も現在の世界でもまかり通っているようです。

「モグラの母子が高台に逃れた」のは消極策のように見えるが、扇情に惑わされず、「津波と洪水」のどちらに対しても完璧な策を選んだことを示しています。


それであればどうすれば良いのでしょうか?
私は中国を動かすしかないと考えています。
中国は得体の知れない国ですが、例えば発展途上国への援助姿勢に良い変化が見られるように、私達は中国のすべてを拒否すべきではないでしょう。注釈1.

北朝鮮をいままで支えて来たのは、かつてはロシア、そして今は中国です。
中国にとっての北朝鮮は、かつての大日本帝国の防波堤であった朝鮮半島のような存在なので、中国はそう簡単には手放さないでしょうが。
しかし北朝鮮の暴挙を封じ込めるには中国しかないでしょう。

残念ながら、今の日本には中国を動かす力もなければ、相手も応じないでしょう。
なにせ現在、最も敵対しているのですから。


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少し全体像を俯瞰してみましょう
今、世界はイスラム国のテロに翻弄され、益々敵愾心むき出しの危険な状況に陥ろうとしています。

何がこの状況を作ったのでしょうか?
良く知らているように、この発端は9.11事件後の米国のイラク進攻にありました。

要点を言えば、米国がイラクの国家機能を完全に破壊したことにより、無法と無秩序の中からイスラム国が増殖して来ました。
私の連載「中東に平和を」でも解説しています。
この愚かな進攻は、大統領の人気、軍需産業と石油産業に恩恵をもたらしただけです。
これにより中東と世界が混迷しただけでなく、米国自身も莫大な国税(300兆円)を使い、この後、マスコミはホワイトハウスに従順になると言う大きな代償を払うことになりました。

リーダーの受け狙いの行動が、世界を困惑させた最も分かり易い例と言えるでしょう。
米国は世界の警察として重要な役割を果たしたこともあるが、一方でベトナム戦争のようにとてつもなく愚かな戦争もしている。

この点を鑑みれば、いつまでも米国に盲従して行くことは危険です。
きっとこのように言えば、誰が日本を守ってくれるのだとお叱りを受けることになるでしょう。

その答えは、米国が守ろうとしたベトナムの末路を見ればわかります。
米国は、南ベトナムの傀儡政権を守る為に、ベトナム全土を焦土にし、800万人が死にました。

なぜなら米国にとって最大の関心事は共産化を太平洋の果てで食い止める事にあったのですから。
もっとも北ベトナムと言う敵があってのことですが。
どちらにしてもこの愚かな戦争拡大の経緯は私の連載「戦争の誤謬:ベトナム戦争」で解説しています。

いざ有事の時に何が日本列島で起きるかは容易に予想がつくはずです。
もっとも小規模な衝突で紛争が止まるなら、日米同盟は役に立つかもしれませんが。

私が心配する大きな危機の一つがこれです。


最後に
上記に示したような危機への対応を寓話に例えることに無理がありました。
しかし、理詰めで説明するだけでは、今起きている危機を身近に感じることが難しいとも思っています。

これからも世界の歴史、社会、経済、文化について懲りることなく書いていきますが、よろしくご理解のほどをお願いします。
ご意見と批判を歓迎しますので、どしどし御寄せください。

ありがとうございました。




注釈1. 
JICAの研究員が指摘されていました。
この人は、世界各地の開発支援をつぶさに視察されたそうです。
以前は、中国が発展途上国に融資し建設し始めると、多くの中国人労働者が現地で工事をしていた。
その後、現地からの指摘があって中国は方針を変更し、現在は建設現場に中国人がほとんどいないそうです。
中国の融資額は増えているそうです。
私達の知らないところで、中国に変化が起きているのです。





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2017年04月19日

中東に平和を! 75 なぜ疲弊したのか 13: コンゴで何があったのか 1

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< 1.コンゴの鉱山 >

これから、植民地化された国がどのように運命づけられたのかを見ます。
主にアフリカのコンゴを中心に考察します。
そこには中東と同じ状況がありました。


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< 2.今後の悲劇 >

コンゴ動乱、コンゴ難民、殺害されたルムンバ大統領、独裁者モブツ。


はじめに
アフリカの国々は例外なしに、早くは15世紀から西欧に侵犯され、19世紀末には完全に分割され植民地となり、20世紀中頃にやっと独立を果たしました。
多くは未だに内戦、貧困、腐敗政治に苦しんでいます。
そこには中東や南米に見られる共通の病根が存在します。



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< 3. コンゴ王国 >

コンゴ王国の王都(17−18世紀)、コンゴの仮面(現代)、ナイジェリアの青銅像(12−15世紀)と青銅器(9−10世紀)、コンゴの象牙製ホーン(14−17世紀)。


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< 4. コンゴ >

上の図: コンゴが属するバントゥ―語族の分布。
下の図: コンゴ王国。


なぜコンゴなのか
アフリカの中でもコンゴは悲惨な代表と言えるでしょう。
この国では数多くの独裁者が出現し、民族が分裂し、多数の死者を出した内戦がありました。
現在も経済の低迷、幼児の高死亡率、高い貧困率が続いており、他の諸国が成長を始めているのに取り残された感がある。

この地は長大なコンゴ川が流れる広大な盆地にジャングルとサバンナが広がっています。
その面積は西ヨーロッパの大半に匹敵します。
ここには14世紀に始まるコンゴ王国があって、多数の小国を従え、鉄器を製造し広大な取引ネットワークを持っていた。
その王都は16世紀においてロンドンの人口を上回っていた。

アフリカの言語は多様だが、コンゴはアフリカの1/3を占めるバントゥー語族に属し、ちょうど中央に位置する。
この語族が最も早く鉄器を普及させ、やがて南下し拡大してしていった。



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< 5. コンゴの悲劇の始まり >

上の図: 15世紀に大航海時代が始まるとポルトガルが最初にアフリカの西側を南下し、コンゴ王国と接触した。

下の図: コンゴ川流域と現在の3分割されたコンゴ。
A=コンゴ民主共和国、B=コンゴ共和国、C=アンゴラ領のカビンダ。


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< 6. 今のコンゴ >



やがてヨーロッパの大航海時代の始まりと共にアフリカの西海岸に転機が訪れることになる。
これ以降、植民地のあらゆる災厄に始まり、冷戦による代理戦争、大国の干渉がアフリカを続けて襲う事になった。

これら不幸を背負った国々はアフリカに多々ある。
例えば内戦に苦しむソマリア、スーダン、ルワンダ、シエラレオネ、独裁者に苦しむジンバブエ、ウガンダ、人種差別に苦しめられた南アフリカなどです。

中でもコンゴは初期から過酷な仕打ちを受け、長く苦しむことになった。
コンゴでの仕打ちを見て行くと、他のアフリカや中東の疲弊がよくわかる。


次回に続きます。




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2017年04月15日

平成イソップ物語 14: 津波とモグラ



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昔々、ある所にモグラがたくさん住んでいました。
そこは山と海に囲まれた平和な所でした。
しかしある日から事態は急変しました。




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モグラ達がたくさん集まっています。

一匹の白いモグラが大声で皆に訴えています。
「皆、聞いてくれ!
津波が来たら、我々の住んでいる所は海に沈んでしまうぞ!」

誰かが聞きました。
「そんなことが起きたら大変だ。 どうすれば良いのですか?」


白いモグラが答えました。
「それは海岸に堤を作るしかない。
そうすれば海からやって来る大きな波を防ぐことが出来る。
私達は土を掘って集めることが出来る。
今やらなくて何時やるのだ!」


皆は騒ぎ始めた。
「この話は本当かな?」
「しかし万が一、津波が来たら終わりだぞ。」


この時、一匹の子供モグラが母さんに言いました。
「以前、僕は地中を深く掘っていた時、底の方で水が流れているのを見たことがある。」

お母さんは言いました。
「山にたくさん雨が降れば、洪水になるかもしれないね。」

母さんは周りのモグラに危惧を伝えましたが、皆は口を揃えて言いました。
「お前は津波の恐ろしさを無視するのか。話にもならない。」


やがて皆は力を合わせて堤を造ることにしました。

そんなある日、その親子はこの浜を去り、離れた高台に住み始めました。

やがて数年が過ぎて、雨が降る日が多くなりました。

ついに川が増水を始め、堤で囲まれた浜は水没してしまいました。

とうとう津波は来ませんでした。



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2017年04月12日

海外旅行のすすめ 3: 初めてのヨーロッパ 2

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< 1.クリスマスの飾りつけ、イメージ >
この記事に使っている写真はすべて借用で、イメージです。


今日は、北欧2カ国で感じた事をお伝えします。
私はここで人々の暮らしや働き方が日本と大きく異なることを実感しました。


私達は3泊4日で、デンマークとスウェーデンの合計4つの会社を訪問しました。
バスの車窓から見た街並み、工場見学、現地の人々の話などから北欧の社会や文化が少し見えて来ました。
古い話になるのですが、当時、衝撃を受けたことを覚えています。


灯りについて
巻頭の写真は、観光バスがコペンハーゲンやストックホルムの郊外住宅地を走っていた時の様子をイメージしています。
訪れたのはクリスマスの1ヵ月前で、都市部ではクリスマスイルミネーションが見られました。
私が素晴らしいと思ったのは、住宅街の個人宅の通りに面した出窓の飾りつけでした。
それは、出窓に飾られた花などが灯りに照らされていて、行き行く人々の眼を楽しませていることでした。
夜に浮かび上がる飾りつけに、人通りが少ないだけに一層、この人々の共に祝う気持ちの強さを感じました。

これから30年後に、日本でも個人宅の外周にクリスマスイルミネーションが普及したようです。


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< 2. 曇り空とレストランの灯り、イメージ >

実は8日間の旅行で、晴れ間を少しでも見たのは一度きりの数時間だったと記憶しています。
雨が降るわけではないのですが、ヨーロッパ全体が厚い雲で覆われているのです。
私達がストックホルムからガブルへ向かう途中、一瞬だけ雲間から青空が少し覗きました。
この時、バスのほぼ全員が歓喜の声を挙げました。
もちろんすべて日本人ですが。

多くの日本人にとって、太陽の陽射しは有り触れたものに過ぎない。
しかし、冬の北欧にとって太陽の恵みは少なく、そのありがたみは格別なのでしょう。

食事をしたレストランの照明は、私にとっては何処も薄暗く、赤みを帯びた白熱照明でした。
始めは戸惑ったのですが、慣れていくと、これが味わい深いものに思えて来ました。

私は、また日本に帰ってから半年以上は夕食の際、わざわざ白熱球の下で食事をしました。

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< 3. 北欧の街並み、イメージ >


町並みから
バスの車窓からウィークデーの繁華街の様子を見ていると、日本と大きく異なっていることに気付きました。
おさらくスウェーデンだったと思うのですが。

日本で言う赤ちょうちんやパチンコ屋などがなく、夕刻なのに勤め帰りの男達がたむろしていない。
仕事を終えた男達は何処に消えてのだろうか?
時たま見かける人達と言えば、カップルでした。
後に、この謎が解けることになりました。

スウェーデンでは男女平等と言うか、男女同一賃金でほとんどが共働きなのです。
これがおそらく一人当たりの国民所得が高い理由の一つなのでしょうが。
この為か、男だけが夜な夜な歓楽街に遊びに行くことがなく、出かけるなら夫婦共になるそうです。
こうして日本のように男で賑わう繁華街を見ることが出来なかったようです。

このことがまたライフスタイルに違いを生んだようです。


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< 4.スウェーデンの家、イメージ >



たしかスウェーデンの大会社だったと思いますが、見学中、急に製造現場の従業員がそわそわしだしました。
そして終業ベルと共に、皆がそそくさと現場を立ち去りました。
日本の工場では考えられません。

次の日、別の工場見学のおり、現地の技術者と談笑する機会がありました。

私は聞きました。
「皆さんは、日頃、休みや余暇では何をしておられるのですか?」

皆さん、色々な趣味やスポーツに励んでおられているようでしたが、一番印象に残ったのは、自分で何年もかけて家を建てる人がいることでした。

日本では考えられないことです。
私達、特に団塊の世代は、がむしゃらに働き、仕事に生きがいを求め、会社に人生を捧げる節がありました。
それに比べ、スウェーデンの人は心豊かに暮らしていると感じました。
この働き方で、時間当たりの労働所得が遥かに日本より高いのですから羨ましいかぎりでした。

当時、日本は高度経済成長を終えて、一人当たりの国民所得が世界に伍するまでにはなっていたのですが、それでも北欧よりは低かった。
さらに時間当たりの労働所得で差が開いた理由は、日本のどこに原因があったのだろうか?
一つ言えることは、サラリーマン(男性)の会社への滅私奉公が所得を向上させてはいたが、一方で、女性の低賃金と機会損失がそれを相殺していたことです。
北欧はこれがなかった。
日本はやっと今頃、動き出した(男女機会均等法、育児休暇制度など)。

他の要因は、後に判明することになりました。


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< 5. 本屋と飛び出す絵本、イメージ >


本屋を訪れて
ストックホルムで空いた時間に、一人で中心街を散策しました。
この時、私は生まれて初めてマクドナルドと海外の本屋に入りました。

本屋の中はクリスマスもあってか、心が弾むような飾りつけになっていました。
それでいて、けばけばしくなかったように思います。
この時、私は子供の為に絵本を数冊買いました。
一冊は北欧神話トールが主人公でした。
他は飛び出す絵本で、中世の城が飛び出すものでした。
当時、日本では見かけることのない類の本でした。
スウェーデン語なので理解できないのですが。

これ以降、海外に出ると本屋に寄り、面白い本を探すようになりました。


次回に続きます。


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2017年04月01日

中東に平和を! 74 なぜ疲弊したのか 12: 何が岐路になったのか? 3


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< 1. イスラエルのテルアビブ >


今まで見て来たように、疲弊が進んでいる国はかつて植民地か共産主義国家でした。
今回は、もう少し理解を深めます。


はじめに

植民地にされたり、共産主義国家になるとなぜ国家は疲弊するのでしょうか?
両者に共通していたことは過酷な支配が定着していたことです。

植民地では異民族が大多数の先住民からあらゆるものを収奪していました。
共産主義国家では一部の官僚が全国民の自由を奪っていました。
重要な事は、両者の支配は政治・経済・軍事などあらゆるものに及んでいたことです。
このことが、せっかく独立を果たしても、また共産主義体制から離脱しても、なかなか疲弊から抜け出せない理由です。


端的な例を見てみましょう
イスラエルでは、多数のユダヤ人が短期間に移住して国を一から作りました。
人口の75%を占めるユダヤ人の間には収奪する制度が生まれなかった。
そして、この国の経済力は高く、政治の腐敗度は低く、所得格差も少ない。注釈1.
あれだけ蔑まれたことがまるで嘘のようです。
残念なことに彼らは先住のアラブ人の土地を収奪し続けているのだが。


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< 2. エジプトのアラブの春 >

同じイスラム圏のエジプトとトルコはどうだろうか?
エジプトの一人当たりの所得はトルコの3分の1です。
トルコは百年前に政教分離を行い近代化を進め順調です。
一方、エジプトは半世紀前から近代化を推し進めようとしたが軍事独裁に陥り、その後は度重なる戦争などで低迷している。
この違いは、かつてエジプトは異民族のトルコ、続いて英国に支配されたが、トルコは支配されたことがなかったことにある。


何が悪いのか
結局、国の疲弊−経済の低迷や政治腐敗、所得格差−は民族や宗教、人種の違いではなく、過酷な支配を長期間受けたかどうかで決まることがわかりました。

しかし、それでは米国やオーストラリア、チリのように、なぜ白人が植民地で大勢を占めると疲弊しないのか。
これこそ白人の優秀さを示してると考える人もいるはずです。


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< 3. 南アフリカの貧富の差 >


例えば、英国領だった南アフリカは白人の入植者が9倍ほどの黒人を支配していた。
白人は黒人の自由な移動や土地所有、選挙権を認めず、低賃金で酷使した。
当時、一人当たりの所得はアフリカでは高い方であったが、それは一部の白人の所得が突出していたからでした。
1994年に人種差別政策は撤廃されたが、今も殺人件数が多く、経済は低迷している。


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< 4. 米国の西部開拓時代 >

一方、前述の三ヵ国はなぜ疲弊しなかったのでしょうか。
これは建国初期に先住民が少ないか減少した為に、収奪ではなく自ら働く社会を作らなければならなかった結果なのです。
しかし米国は、黒人奴隷の使役や先住民の土地を収奪していたこともあり、大きな所得格差を許容する国になったと考えられます。

つまり、ここでも収奪制度の有無がポイントでした。
人類は、往々にして身内には平等であっても異なる人々を差別します。


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まだ疑問が残る
そんな昔の植民地時代のことをいつまで引き摺っているのか、自己責任で立ち直るべきだと思う人がいるはずです。

例えば、1789年に始まったフランス革命は、いつ完成したのだろうか。

それは、度重なる旧体制側からの反撃や周辺諸国からの妨害を乗り越えて、第三共和政が樹立された1870年ではないだろうか。
つまり、ほぼ百年の間、多くの血を流して王政を脱し、政教分離を手にいれたのです。


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1868年に明治維新を成し遂げた日本が真に民主的な国になったのは何時の事だろうか?

富国強兵で強国となったが、軍閥と財閥の肥大化を抑えることが出来ず、大戦へと突き進んだ。
そして1945年の敗戦後、米軍の占領下で財閥や地主の解体、女性選挙権の開始が進められ、やっと民主的な体制となった。

つまり、一つの国が収奪的な体制から民主的な体制に転換することは生易しいものではないのです。


次回に続きます。


注釈1.
イスラエルの建国は他の例と異なり、豊富な資本が集まり、また高度な技術者が集まった。


このことが今の経済や産業を支えている大きな理由です。


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2017年03月30日

平成イソップ物語 13: 熊と狐

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ある所に、秋になると鮭がたくさん遡上してくる川がありました。
そこでは熊と狐と多くの動物が仲良く暮らしていました。
しかし鮭の量が減り始めていました。



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熊以外の動物達が鮭の漁について話し合っています。

「皆、熊だけに鮭の漁を任しておいて良いのだろうか?」
「しかし、我々は熊が採ってくれた残り物を貰って暮らしている。」
「我々が鮭を漁することは難しいし、第一、熊が我々の漁を許さないだろう。」
「しかし、このままでは鮭が減っていくのは確実だ。」


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狐と他の動物達は熊の所に話しに行きました。
すると熊は皆を威嚇しながら言いました。

「お前たちは、これから鮭が遡上してくる川に近づいてはならない。」

皆は仕方なく引き下がりました。



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やがて月日は流れました。

熊の数が増え、また密漁する動物も増えて鮭の数はどんどん減っていました。

皆は危機感を持ち、対策を話し合いました。

「やはり、我々がこの川を守るべく鮭の漁を規制すべきだ。」
「皆を集めて、熊の所へ行こう!」




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この時、狐のリーダーが言いました。

「今、熊を怒らすのはまずい。ここはやはり熊に従うべきです。」

この狐は熊とこっそり話をしました。

「どうか我々狐にだけは鮭の残り物を確保して下さい。」

それを聞いた狐達はリーダーに大変感謝しました。

一方、足並みの乱れた他の動物達は規制を諦めざるを得ませんでした。


そして、また月日が流れました。

とうとうこの川に鮭が遡上しなくなり、熊も狐も、他の動物も死に絶えてしまった。



追記
これは核兵器禁止条約と核拡散防止条約における日米の姿勢を揶揄したものではありません。



posted by 学 at 07:39| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載中 平成イソップ物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

海外旅行のすすめ 2: 初めてのヨーロッパ 1

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< 1.当時の飛行機 >


私は33年前に初めてヨーロッパを訪れました。
この時、私はヨーロッパの街並みに感動し、異文化と接することに興奮しました。
当時の感動と興奮を紹介します。



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< 2. 旅行の地図 >

上の図: この時、私達はルフトハンザ機に乗って伊丹空港から成田、そしてアンカレッジ経由でフランクフルト空港に辿り着き、やっとヨーロッパに入った。
しかし、すぐさまコペンハーゲンまで飛び、ここでヨーロッパの1泊目となりました。

下の図: ヨ−ロッパ内の移動経路。
1=フランクフルト。 2=コペンハーゲン。 3=ストックホルム。 4=ガブル。 5=ニュールンベルグ。 
この番号順に移動し、番号2から1までの順で宿泊した。
黒線は空路、茶色は鉄道、橙色はバスです。


旅行の概要
これはヨーロッパの優良企業を視察する研修旅行でした。
参加者は多くが中小企業の人で約40名になりました。
期間は、1984年11月18日から8日間でした。
訪問したのはドイツ、デンマーク、スウェーデンの計6社でした。

観光する暇もなく、飛行機とバスで移動を繰り返しました。
しかし、得たものは非常に多かった。
実際に工場を見学し、さらに現地の人と話を出来たことが良かった。
ホテルでの体験やバス移動時の車窓の風景は強く印象に残りました。

一番は、当時、疑問に思っていた日本と西欧の違いについて、私なりの答えが得られたことでした。
そして海外旅行が私の最大の楽しみになったことです。

残念ながら、この旅行の写真が残っていませんので、イメージとして借用した写真を使いますのでご了承ください。



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< 3.ストックホルムからガブルへ >


旅の思い出
この旅で最も印象深い景色はストックホルムからガブルに行く途中のバスからの景色でした。
ストックホルムを北上して3時間ほど走って港町ガブルに着いた時は、既に真っ暗でした。

ガブルに近づくに連れて一面の収穫後のジャガイモ畑から、遠くに非常に背の高い杉の森が現れ始め、やがて一面が雪に覆われる景色へと変わっていきました。
陽が暮れた森の所々に、1軒の尖がり屋根がちらほら見えるようになりました。
暗い森を背景に、雪を被った家の窓から暖かい光がこぼれ、白い雪が少し赤みを帯びていました。

正に、幼い頃に夢見たサンタクロースの世界がそこにはありました。



ホテルでの経験
最初に泊まったのがデンマークの首都コペンハーゲンの中心部のホテルでした。
当時のホテルはシェラトン−コペンハーゲン・ホテルでしたが、今回調べてみると、外観は当時のままですが、スキャンディック・ホテルに変わっていました。

到着が遅かったので、食事して寝るだけになりました。
それでも私にとっては、ヨーロッパ最初のホテルでした。
一番、印象に残ったのはフロント係りの女性の美しさでした。
未だに、私はヨーロッパ各地の人種(ゲルマン、スラブなど)の見分けが定かではないのですが、これは北欧女性の美しさと思いました。



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< 4. 北欧のホテル >

上左の写真: コペンハーゲンのスキャンディック・ホテル。
上右の写真: 当時のガブルのグランド・セントラル・ホテル。
私達が泊まったこのホテルは2005年に焼失し、現在はスキャンディックCHのホテルに変わっています。

下の写真: グランド・セントラル・ホテルの当時のレストランらしい。


私はこの旅行で幾つかのカルチャーショックを受けたのですが、このグランド・セントラル・ホテルの経験はインパクトのあるものでした。

このホテルは駅前に建つ非常に立派な建物で、大理石がふんだんに使われており、驚いたものです。
三人で写真のような地下のレストランに行き夕食を食べた時のことです。
このレストランは半地下で、上部の小さな窓から月明りが微かに差し込んでいました。
実に趣がありました。

最初の経験を紹介します。

一つ料理を注文したら、出てくるのに30分はかかりました。
2回目も3回目も、同じように時間がかかり、私はいらいらしていました。
私は食事に普通15分以上はかけていませんでしたので。

しかし周りを見ると、現地の様々なカップルが談笑しながら、時間をかけて楽しんでいました。
テーブルの仲間と話し合い、これは料理を作るのが遅いのではなく、歓談の間合いを考えての給仕だという結論に達しました。
この時、大いに私は自分のせっかちに反省したものでした。
日本に帰ってからも半年ぐらいは、食事をゆっくり食べるようにしたものですが、すぐ元に戻ってしまいました。
去年のクルーズの食事でも、始めは1時間半ぐらいかけていたのですが、途中から、時間がもったいなくなり、ブッフェに通うにようになった。

この夕食の後、さらに恥ずかしい経験をしました。
私達同行メンバーはほとんど男性でしたが、夕食後、大挙してこの地下のダンスホールに乗り込もうとしたのです。
ダンスホールでは沢山の西欧人が社交ダンスを踊っていました。

一人では行けないのですが、皆で酒の勢いで突入しました。
ところがボーイが私達を制止し、入れてくれないのです。
誰かが「ここは男女のカップルでないと入場出来ないぞ!」と言い、皆、急に酔いが醒めて引き下がりました。

今、思い起こすと、ロシアからバルト三国の旅行で出くわした集団の中国人観光客
の振る舞いに閉口したもですが、昔の私達もよく似たものだったのかもしれません。

こうして3泊目の夜は更けて行きました。


次回に続きます。








posted by 学 at 07:30| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載中 海外旅行のすすめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする