2018年02月22日

デマ、偏見、盲点 23: 何がバブル崩壊と戦争勃発を引き起こすのか? 2

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今回は、戦争勃発のメカニズムを考えます。


* 戦争勃発のメカニズム

戦争勃発までの経緯をここ1世紀半ほどの歴史から集約してみましょう。
初めに民主国家間の戦争を想定します。
独裁者が戦争を始める場合は後で検討します。

この場合、ほとんどの国は相手より少しでも軍事上優位を望み、仮想敵国同士が軍拡競争を始めます。
中立国で軍備を保有する場合はありますが軍拡競争に陥ることはない。

軍拡競争で劣勢に立たされた国は軍事同盟を求めて挽回を図ります。
やがて国々は二つの軍事同盟に収斂し、世界は対立する巨大軍事同盟による緊張状態に晒されます。
これがここ1世紀半の間に起こり、世界は二度の大戦と代理戦争に巻き込まれました。

これを避ける為に中立政策を採る国(北欧、スイスなど)があり、ほぼ戦火を逃れることが出来ました。
もっとも中立を宣言するだけで助かると言うものでもありませんが。
(中立国の軍備について注釈1で検討します)


上記のケースで、最初に戦端を切った国(侵略国)も初めは議会制の民主国家でした。
しかし日独のように軍拡競争に奔走する過程で民主主義を放棄し暴走することになりました。(ソ連も革命当初は議会制でした)
歴史上、一度軍拡競争が始まると暴走は必至であり、さらにその過程で軍部独裁が誕生し易くなります。
(軍拡競争と軍部独裁について注釈2で説明します)


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* 独裁国家の戦争

独裁者が牛耳る国の場合はどうでしょうか?
残念ながら今なお地球上に独裁国家が存在しますので、独裁者が狂気を帯びていると思えば不安は高まります。

ここでは二つの実例から、軍部独裁による戦争勃発の経緯を考えます。
独裁者や軍部が軍事権を握っていれば、例えばヒトラーや日本帝国のような場合はどうだったのでしょうか?

ヒトラーの台頭を許した要因に、初期のドイツ国民の絶大な期待、欧米列強の対ロシア牽制への期待があり、ドイツの軍備増強があまり危惧されなかったことがある。
これを放置し、融和策さえ採ったことが問題を大きくしたと言えるでしょう。
その後、チャチールのように強く出ても既に手遅れで、結局、ヒトラーを死に追いやるまでヨーロッパ全土は破壊と殺戮に晒された。

しかし、なぜ聡明なドイツ国民が暴虐で狂気のヒトラー(ナチス)に希望を託してしまったかが問題です。
様々な要因はあるが、発端になった最大の理由はフランスが報復的な経済制裁をドイツに課し、経済を疲弊させたことにある。
国民はどん底から這いがるためなら武力による他国侵略すら容認するようになり、国の指導者に剛腕な人物(見かけは清廉で内実は凶暴)を選んだのです。
こうなってからの融和策は手遅れでした。
(集団が外部に強い敵意を抱くように仕向けると、人々は人格的に問題があっても剛腕なリーダーを選ぶことが社会実験から知られています。逆に言えば、敵意を煽れば煽るほど下劣なリーダーでも人気が上昇するのです。この手の事例は特に最近頻出しています)


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日本帝国の膨張を考えます。
当初、欧米列強は海軍力の軍縮条約履行(軍艦保有量の制限)で日本の膨張を抑えられるとしていたが、日本の大陸進攻を契機にそれまでの経済封鎖を強化し、石油の禁輸によって日本の戦意を挫こうとした。
しかし、これが逆効果となったのは周知の事実です。
それは日本帝国が、石油が枯渇するまでに勝利すれば良いとして短期決戦へと踏み切ったからでした。

これらの例からわかるように狂気の前では、抑止力の設定(軍縮条約)と経済封鎖がまったく意味をなさないか、逆効果にもなったのです。
いずれにしても、このような客観的な判断が出来ない指導者を相手に、単純で通り一辺倒の策は役に立たないか、むしろ逆効果なのです。

多くの場合、相手国が正常なら軍縮条約と経済封鎖は功を奏し、安全で効率の良い方法と言えます。


次回に続きます。



注釈1.
戦争に巻き込まれない策として、中立政策があります。
簡単に見ておきます。

中立とは非同盟を指しますが、これは歴史的に軍事同盟が多くの戦争を引き起こしたと言う反省に基づいています。
つまり、我が国は自ら戦争をしないし、他国の戦争にも協力しないと言う宣言なのです。
これは相手国に敵意や脅威を与えないことを目的としています。


しかし、そうは言っても独裁的で狂気に走る国なら中立国に武力侵攻する可能性があります。
事実、大戦時ドイツとソ連は中立である北欧4ヵ国に侵攻した。
この時、スウェーデンだけは地政学条件と外交手腕によって、戦火から逃れることが出来た。
他の国は戦火にまみれたが、日独のように自ら膨大な軍事費と人命を浪費し、徹底来な破壊を被ることはなかった。
永世中立国のスイスも戦火を免れることが出来た。

このような経緯を踏まえてスイスやスウェーデンなどの中立国は専守防衛に徹した軍備を保有しています(先制攻撃力の保有は他国に脅威を与えるので中立国とみなされない)。
ただ小国(ルクセンブルグ、モナコなど)は大国や同盟に防衛を依存しています。

このテーマは非常に重要ですので、いずれ扱うつもりです。



注釈2.
軍拡競争と軍部独裁はなぜ起きるのか?

軍拡競争は抑止力とも関わるのですが、敵国同士が客観的に双方の軍事力を評価出来ないことに起因します。
当然、敵国は自国の兵力を秘密にする一方、相手に過大評価させようとします。

また、敵愾心が嵩じて来ると、軍事的に劣勢に立たされていても、多くの指導層は精神論を持ち出し、甚だしい場合には軍事力や経済力が敵対国の1/10であろうと勝利を確約します(かつての日本帝国)。
残念なことに、このような場合、国民もこのような指導層に期待していたのです。
これでは抑止力は無きに等しく、軍拡競争は行き着くところまで行くと、遂には弱小国は窮鼠猫を嚙むで、突飛な行動に出ます。

このような場合、概ね弱小国は軍事力を補うために軍事独裁に走ることになります。
実はすべての国がこうなるわけではなく、独裁者を仰ぎやすい精神文化を持った社会に起きやすいのです。
例えば長子相続の社会であり、ドイツと日本が正に適合していたのです。(エマニュエル・トッドの説)

大国は大国で安易な軍備増強の道を進みます。
これもまた歴史が示すところです。
理由は、一度得た権益―植民地や従属する同盟国での経済上の特権など、を守る為です。
この過程で、軍産共同体が台頭し政治力を持ちます。
そして軍事費の増大が、遂には国力を弱め、かつての帝国がすべてそうだったように衰退していったのです。(植民地政策や軍事大国の維持は一部の者の利益にはなっても、国家としては出費や損失が大きいいのです)

実は、北欧の経済が順調な理由の一つに、二度の大戦において中立を守り、軍事費増大と大きな被災を逃れたことがあるのです。


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2018年02月19日

デマ、偏見、盲点 22: 何がバブル崩壊と戦争勃発を引き起こすのか? 1

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これから、二つの悲惨な結果に至るメカニズムを考えます。
バブル崩壊と戦争勃発はまったく異なるように見える。
しかし実は同じようなメカニズムが働いているのです。
三回に分けて説明します。


* バブル崩壊と戦争勃発について


なぜバブル崩壊が起きるのでしょうか?
誰かが裏でバブル崩壊を煽っているのでしょうか?
残念ながら経済学は崩壊をうまく説明できない。

概ね投資家達(市場参加者)はバブルを好調とみなし歓迎します。
しかし一方で彼らは破産に至るバブル崩壊を恐れます。
一部、間違いなく救済される巨大銀行や崩壊の先頭を切って売り逃げた投資家は別です。(毎回、自分だけは別だと夢想している)

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なぜ戦争は起きるのでしょうか?
誰かが裏で戦争を煽っているのでしょうか?
この手の話はいつも巷に溢れています。
しかし多くの真実は戦争が終わってからでしかわからない。
(これを第2次世界大戦とベトナム戦争を例に注釈1で説明します)

平和時であっても、概ね国家は戦争を避けようとして軍備を整えます。
まして緊張が高まると増強へと舵を切ります。
概ね指導者は膨大な人命と破壊が起きてしまう戦争を望まないはずです。
少なくとも国民は戦争が二度と起こらないことを強く望むはずです。
一部、戦争をしても被害の少ない大国や支持率が上がる指導者、莫大な利益を得る軍産共同体は別です。

バブルを煽る投資家達も軍備増強を推し進める国家も共にその悲惨な結果を恐れることでは共通しています。
それでは、なぜ望まない悲惨な結果が生じるのでしょうか?


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* バブル崩壊のメカニズム

バブルは経済好調と紙一重ですが、ほぼ確実にバブルは崩壊します。

これは投機家らが株価(金融商品)の高騰が続かないと不安を抱くことが引き金になります。
このタイミングは微妙です。
バブル崩壊の直前まで、多くの経済指標(生産高や失業率)は良好だったのですから。

一つ明確なことは、暴落する時、最初に売り逃げた者は利益を得るが、後になればなるほど投機家達は莫大な負債を背負う運命にあることです。
暴落が始まると、手のひらを返すように貸し手(銀行)が投資資金の回収を急ぎ、逃げ遅れた投機家は莫大な含み資産の所有者から一転して莫大な借金を背負うことになります。
(これを土地投機を例に注釈2で説明します)

この被害は投機資金のレバレッジが効いているほど、中央銀行によるマネーサプライが多いほど起き易くなります(巨額の借金を安易に入手出来る為)。

この時、投資家や金融業が破産するだけでなく、必ず国民も大不況の被害(不景気、失業、福祉カットなど)を長期に被ることになります。
これは銀行の倒産などに端を発する金融危機、つまり巨大な信用収縮が起きるからです。
この深い傷を放置すれば、過去のバブル崩壊(恐慌)後の景気後退のように、設備投資や消費が回復するのに何十年かかるかわかりません。
深刻だったのはヨーロッパの1857年から、米国の1929年から、日本の1991年からの二十年を越える景気後退でした。

このため崩壊後、政府と中央銀行は数十兆円から数百兆円を主に金融市場に投じるのです。
この金額で暴落時の全金融商品(株価など)の評価損を幾分なりとも補うのですが、悲しいことに国民が負担する税金と赤字国債で賄われます。

実はリーマンショック時の全金融商品の評価損はよく分からない。(不明な理由はシャドウバンキングの取引額が分からないためです)
しかし当時のクレジット・デフォルト・スワップ(金融商品の保険)の取引額が6800兆円に上っていたので評価損は見当がつきます(想像を越えますが)。

つまりバブルで儲け、崩壊を引き起こすのは投資家(市場参加者)なのですが、その結果、その痛いツケを強制されるのは傍で浮かれていた国民なのです。


次回は戦争勃発のメカニズムについて説明します。


注釈1
ベトナム戦争は誤解から始まり、深みに嵌った戦争の代表例です。

戦争の発端は第二次世界大戦後に始まる冷戦の敵対感情の高まりにあった。
さらに離れた大陸にあり、異質の文化を持った米国とベトナムは互いに相手国をまったく知らなかった。

初期の接触、ベトナムでの小さな戦闘でこじれたことにより、その後は疑心暗鬼から大戦を凌ぐ爆撃量になるまでエスカレートしていった。
そして米国では大統領が替わるたびに停戦を志向するが、選挙を意識し敗戦の将の不名誉を避けようとして益々深みに嵌っていった。
終わってみると、この戦争で800万人の死者と行方不明者が出ていた。

後に、両国の当時の最高指揮官達が会談して初めて互いの誤解に気づくことになった。
この会談は1997年、ケネディ大統領の下でベトナム侵攻の采配を振るったマクナマラ元国防長官が、ベトナム側に要請して実現したものです。
詳しくは私のブログ「戦争の誤謬 7、8: ベトナム戦争1、2」を参考にしてください。

第2次世界大戦を引き起こしたヒトラーは外部に凶悪な敵がいると扇情し国民を魅了した。
その敵とは主に共産主義者、ユダヤ人、フランスやロシアの周辺国でした。
しかし、やがてドイツ国民は真の破壊者が誰であるかを知ることになるのですが、それは戦争の末期になってからでした。
多くの国民は戦後10年間ほど、ヒトラーに騙された被害者であると感じていたようです。
その後、加害者の自覚が生じ反省と償いが本格化した。

一方、共に戦端を開いた日本では国民が軍部に騙されたと気づいたのは敗戦後でした。
しかもドイツと違って、未だに誰が真の破壊者であったかを認めない人が多い。
極め付きは、国の指導者でさえ相変わらず過去の美化に懸命です。

これでは誰が戦争を始めたかを理解出来ないので、当然、戦争を食い止めることなど出来ない。
おそらくは同じ過ちを繰り返しても気づかないでしょう。



注釈2
身近な企業経営者が1880年代のバブル時にハワイの別荘を買い、バブル崩壊と共に夜逃げしたことがありました。
この過程を説明します。

バブルが始まると最初に工場を担保にし、1億の手持ち資金で国内不動産を購入し、これが数年で2億の評価額になりました。
次いで、これを担保に借金し、別に買った物件がまた4億円に高騰しました。
これを繰り返して行くうちに、遂にはハワイの不動産を買うことが出来た。

絶頂期に彼は総資産20億、借金10億で純資産10億となったことでしょう。
(ここで売れば良かった!!)
しかしバブルが崩壊し、すべての不動産価格が購入時の半値になりました。
彼の総資産は1/4以下に減価し、不動産をすべて売却し返済に充てても借金5億が残りました。
こうして彼は破産しました。

金融商品投資でレバレッジを30倍効かせれば、暴落時の借金はこんな少額では済まない。
ここ半世紀、規制緩和でレバレッジが上がり、金融緩和でマネーサプライが巨大になって投機資金が膨大になり、その尻ぬぐいで累積赤字が天井知らずになっている(減税と公共投資も追い打ち)。

毎回のバブル崩壊で、このように土地、株、商品取引などの高騰と暴落が繰り返されている。
資本主義国だけでなく中国も不動産(マンション)と株で同様の高騰な続いています。
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2018年02月15日

冬の東浦を歩く 1

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今日は、東浦の山野と海を紹介します。
2018年2月13日、時折、小雪がちらつく中を12kmほど歩きました。
これを数回に分けて紹介します。


はじめに

私が今回歩いた所は、かつての東浦町の中央部分になります。
ここは現在、町村合併で淡路市になっています。
東浦は大阪湾に面し、山を背にした丘陵地帯が続く温暖な地です。
神戸からは高速バスで45分で来ることが出来ます。


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< 2. 散策ルート >


上の地図: 上が北。青線が散策ルートです。

下の地図: 右が北。青の点線が今回一周したルートです。
距離は約12km、標高差70mぐらいです。
丘陵地帯の山側と川沿いの道、そして海岸沿いと漁港を歩きました。
黄色の直線は今回紹介する部分です。


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< 3. 歩いた道 >

これらは歩いた道と道の直ぐ横にある溜池です。


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< 4. 竹藪 >

冬でも竹は青々としており、枯れ木の多い山野にあって息吹を思い起こさせてくれます。
ただ、竹藪は旺盛な生命力で他の木々を追いやり、さらに高齢化で竹藪が放置されているので、竹藪は拡大の一途です。


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< 5. 道端で見かけた実りと花 >

周囲の多くは冬枯れの景色ですが、果樹園には柑橘類、庭先には水仙や菜種の花が咲いていました。


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< 6. 南側に大阪湾を見下ろす >

東浦はカーネーションなどの花卉栽培が盛んで、その温室が丘陵部を覆っています。
また多くの溜池が点在しています。
溜池はこの急斜面の田んぼの灌漑には無くてはならいもので、古くから村人達が造り管理して来たものです。
これが村人の団結を育てることにもなったのでしょう。



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< 7. 東側に大阪湾を見下ろす >

上の写真: 防波堤が見える所が刈谷漁港です。
対岸は大阪です。

下の写真: 道沿いに点在する段々畑。

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< 8. 北側に大阪湾を見下ろす >

対岸は神戸、左側は須磨です。


次回に続きます。



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2018年02月06日

デマ、偏見、盲点 21: 抑止力と規制緩和に共通する危さ


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今、二つの危機、核戦争と経済破綻が迫っています。
しかし、この対処方法に真逆の説があり折り合いがつかない。
このままだと遂には破滅に至る可能性がある。
人々は漫然とかつて歩んだ道を進むのだろうか?



*抑止力と規制緩和に共通するもの

この2月2日には米国は核軍縮から小型核使用に方向を転じた。
また2月3日にはNYダウが1日で2.5%下落した。
これがリーマンショックを上回るバブル崩壊の始まりかどうかはまだ定かではないが、可能性は高い。

ある人々は、この二つは世界を破滅に導くと警鐘を鳴らす。
この破滅とは、核戦争と大恐慌(著しい経済格差と国家債務不履行も含む)です。

しかし一方で、これこそが破滅を防ぐ最善の策だと唱える人々がいる。
戦争を防止するには小型核、恐慌を回避するには景気拡大の為の規制緩和こそが絶対必要だと言うのです。

この二つの危機とその対処方法は一見次元が異なるように見える。
しかし、この二つの対処方法には不思議な共通点があります。
小型核は抑止力、規制緩和は自由競争を前提にしているのですが、実は共に相手(敵国や競合者)の善意を信じない一方で理性に期待しているのです。

抑止力は、敵意剥き出しの国がこちらの軍備力を的確に把握したうえで抑制出来る理性を有する場合のみ成立するのです(太平洋戦争時の日本軍が反証の好例)。
規制緩和は、個々の市場参加者が利己的に行動しても、市場全体としては最適な方向に落ち着くと信じているのです。
何か不思議な信念に基づいた論理なのです。

実際の社会は、悪意も善意も、感情的にも論理的にも動いているのですが。

さらにもう一つ、共通していることがあります。

例えば「抑止力は無効だ!」「自由競争は不完全で弊害が多い!」と否定したらどうでしょうか?
実は困って激怒する人々がいるのです。
前者では軍需産業、後者では金融業界や富裕層で、大きな実害を被るからです。
逆に否定して利を得る人々は特に見当たりません。

具体的に抑止力と規制緩和の危さについてみていきます。


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*抑止力の罠

兵器による抑止力は有効かと問われれば、「YES」ですが条件付です。

先ず、抑止力が有効な場面は身近な事から類推できるでしょう。
しかし抑止力が効かなくなる場合を理解することは少し難いでしょう。

単純に二つのケースがあります。
競合国(敵対国)が共に軍拡競争に突入した場合です。
一方が軍備増強を行えば相手は脅威を覚え、必ず軍拡競争が始まります(初期の米ソの冷戦)。
これは歴史上至る所で見られ、多くは大戦へとエスカレートしました。

もう一つは、兵器が無数に拡散した場合です。
分かり易いのは、米国の銃社会です。
国民一人に1丁以上の銃があることによって、銃による殺人事件や自殺が非常に多くなっています。
ここでは安易な兵器使用が抑止力の効果を上回っているのです(大国の中東などへの安易な軍事介入なども)。

この二つの例からだけでも、使いやすい小型核の普及は抑止力よりも危険の増大が予想できるはずです。

これに加えて、核兵器ならではの危険を増大させる要因があります。
一つは被害が非常に悲惨なことです。
このことは見落とされがちですが、多くの戦争は燃え上がる復讐心が高ければ高いほどエスカレートし、停戦は不可能になります。
だからこそ人類は悲惨な被害を与える対人地雷やナパーム弾などの兵器の使用を禁止してきたのです。
残念ながら世界は原爆の被害をまだ知らない(日本が先頭切って知らすべきなのですが)。

もう一つは、兵器のコストパフォーマンスが高いことです。
もし手に入れることが出来れば数億から数十億円で相手一国を恐怖に陥れることが出来るのです(抑止力と呼ぶ国もある)。
これまでは膨大な軍事費を賄える経済力こそが大きな抑止力を可能にしたが、核兵器なら小国でも可能になります。

結論は、小型核のような兵器は抑止力を期待出来るどころか、取返しのつかない状況に追い込んでしまうのです。
銃が蔓延し殺人が多いにも関わらず、銃規制が出来なくなってしまった米国がその好例です。

米国では治安と平和は高額で買うしかなく、金が無ければ治安が悪い所に住み、命を危険にさらさなければならないのです。
核兵器の下では、これすら不可能です。


*規制緩和の罠

規制緩和は経済活性化に有効かと問われれば、「YES」ですが条件付です。

皆さんの多くは規制緩和が経済を活性化させると信じているはずです。
一方で規制緩和が経済や社会に弊害をもたらす事例も数多くあるのですが、なぜか見えなくなっています。
これは今の日本で、有効だとする情報が大量に流されているからです。

幾つかの事例をみてみましょう。



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*米国の規制緩和がもたらしたこと

先ずは米国で40年近く行われて来た規制緩和が如何にバブル崩壊と経済格差を生んだかを簡単に説明します。
専門用語が出て来ますが、全体の流れを知って頂ければありがたいです。

1. 先ずストックオプションが1980年代から急増した。
これにより経営者は短期に高騰させた自社株を安く手に入れ、彼らの所得は鰻登りなっていた。
このことが企業経営を投機的で短期的なものにし、従業員との所得格差も開いた。

2.グラス・スティーガル法が1999年に廃止された。
この法律は1929年の大恐慌の再来を防止するために銀行業務と証券業務を分離し、投機行動を監視し抑制するのが目的でした(1932年制定)。
しかし、これが廃止されたことにより、監視が行き届かないシャドウバンキング(証券会社やヘッジファンド)が好き放題に投機をおこなった。

3.投機時のレバレッジ率が上昇した。
これは証券、商品、為替などへの投機時に自己資金の数十倍まで投資が可能になることです。
これによって投資家は価格が高騰した時は桁違いの儲けが出るのですが、暴落すると巨額の負債が発生し、バブルと崩壊が繰り返されることになった。
このことが2項の監視されない状況で起こった。
 
4.クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)が2000年頃から急拡大した。
これは金融派生商品の一種ですが、リーマンショックの巨大なバブル崩壊を招いた大きな原因の一つでした。
これは金融取引時の損失を補償する新手の保険で、当時、危険な投資案件でも金融機関はこの保険があれば救済されると信じていた(赤信号皆で渡れば怖くない)。

バブル崩壊前年の2007年末にはその取引額は6800兆円になっていたが、6年間で100倍にも膨れ上がっていた。
この年の米国の名目GDPは1500兆円で、如何に膨大かがわかる。
当然、崩壊時の補償など出来るはずもなく、米国政府は税金と国債発行で300兆円を金融危機終息の為に注入せざるを得なかった。
出来もしない補償であろうがCDSを販売すれば儲かったのです(6800兆円の数%の手数料でも莫大)。

大雑把ですがポイントは以上です。
この悲惨な状況を生み出した最大の馬鹿げた理由は、貪欲な投機家や資産家、経営者達を野放したこと、つまり規制をしなかったことによるのです。
もうひとつ見落としがちなのは、資金力や情報力、政治力などの差により完全な自由市場などは存在しないことです。

この話は、少し分かり難いかもしれません。
しかし規制や取り決めがなく好き勝手にした為に社会が壊滅した事例は歴史上多いのです。

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* 歴史上、破滅した例

典型的な例はイースター島とアイスランドです。

人々が最初にこれらの島に入植した時は、木々が茂る緑豊かな所でした。
しかし、燃料などの為に伐採が進む内に自然は再生不能となり、イースター島では部族同士が激しく争い、人口は激減し、逃げ出すにもカヌーを作る木材さえなくなっていた。
アイスランドは木々の無い島となり、それこそ火と氷の島となったのです。


* 日本の事例

最後に日本の規制緩和の惨めな例を一つ挙げましょう。
労働者派遣法の適用拡大により、非正規雇用が拡大し続けています。

これも賛否両論があります。
ある人々は産業の競争力を高める為に、また産業や企業の盛衰に合わせ人材は流動的でなければならないと言う。
一方で、安易な首切りや低賃金の横行は基本的人権を侵害すると言う。

おそらく多くの人は、経済側の言に耳を傾け、泣き寝入りするするしかないと感じていることでしょう(これは日本人の奥ゆかしさかもしれない)。

この問題のポイントは是か非かではなく、どちらも正しいのです。
企業の競争力を高め、労働者の価値を高めるためには、人材の流動性が必要です。
当然、簡単に首を切られ、低収入や無収入に甘んじなければならないのは論外です。

つまり、労働者は失業中も収入が確保され、転職のための再教育や訓練が充分行われ、就職すれば当然、同一労働同一賃金であるべきなのです。

こんな夢のようなことは不可能だと思われるかもしれませんが、北欧(スウェーデン、デンマークなど)ではこれが当然のように行われているのです。

日本の悲しさは、産業競争力の責任を一方だけが背負い甘んじているのです。



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*まとめ

抑止力と規制緩和の問題点を簡単に見て来ましたが、ここで確認して欲しいことがあります。

抑止力については歴史的に見て完全なものではなく、むしろその強化を放置すれば災いを招くことがあったことを知ってください。

また規制緩和はここ半世紀ほど米国を筆頭に行き過ぎており、多くの問題が生じていることを知ってください。

抑止力と規制緩和の推進は軍需産業や金融業界、資産家に取って実に旨味のあることなのです。
東北大震災の福島原発事故のように、大きな産業と関係省庁が癒着してしまうと、体制維持に都合の良い情報だけが国民に流され続け、問題点が見え無くなってしまうのです。


* 日本が今歩んでいる道


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< 6.銀行の金融資産と自己資本の比率、OECDより>

金融資産/自己資本は金融セクターの財務安定性を見るためのものです。
上のグラフ: 2004〜2016年の金融資産/自己資本の推移。

多くの国、例えば英国、デンマーク、米国はリーマンショック後、健全化を進めているが、日本だけは悪化している。

下のグラフ: 2016年、この日本の比率はOECD35ヵ国の内、下位から
三番目です。

もし大暴落が始まればどの国が最も影響を受けるのでしょうか?



参考文献
「米国の規制緩和がもたらしたこと」に詳しい本

「世界金融危機」金子勝共著、岩波書店、2008年刊。
「世界経済を破綻させる23の嘘」ハジュン・チャン著、徳間書店、2010年刊。
「世界を破綻させた経済学者たち」ジェフ・マドリック著、早川書房、2015年刊。
「これから始まる『新しい世界経済』の教科書」ジョセフ・E・スティグリッツ著、徳間書店、2016年刊。





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2018年02月01日

フランスを巡って 58: 目次と感想

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旅行記の最後に目次と感想を記します。
この旅行で念願の南仏、アルザス地方、モンサンミッシェル、幾つかのゴシック大聖堂を訪れることが出来ました。
またフランスのお国柄を肌で感じ、また歴史が身近なものになりました。



旅行の概要
トラピックスのツアー「13日間のフランス夢の大周遊」
期間:2017年5月17日(水)〜29日(月)

関空深夜発、ドバイ経由でニースに着き、旅行が始まりました。
フランスを9日間宿泊し、移動はすべて観光バスでした。
帰国は午後パリ発、ドバイ経由で関空に着きました。

ニースの朝だけ小雨になった以外はすべて快晴に恵まれ、最高の観光日和になりました。
一方で、最高気温が予想外の30℃近くにもなりました。


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< 2. 旅行ルート >

数字は観光地を示し、観光はその順に進みました。
黒い数字は観光のみ、赤い数字は観光した宿泊地を示す。
赤字のTは宿泊だけのトゥールです。
茶色の線は観光バスでの移動を、赤線は航空路を示す。


* 目 次

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写真は記事の巻頭写真で、写真番号は記事の番号です。


1 はじめに
旅行の概要と各地の代表的な写真を紹介しました。

2 モンサンミッシェルの朝昼晩
モンサンミッシェル全景をほぼ一昼夜撮影しました。
陽に輝く雄姿、夕陽に浮かぶシルエット、朝霧に霞む遠景など。

3 セーヌ川クルーズ
休日のセーヌ川クルーズは夕陽と歓喜に包まれました。
両岸で憩う市民が手を振り、クルーズ船を温かく迎えてくれた。

4 古都ボーヌ
ワインと修道会創立で有名なブルゴーニュにある中世の古都ボーヌを尋ねました。
街と周辺の風景を紹介しました。

最も感動した上記2〜4を最初に紹介しました。
次からは、訪問順に紹介しています。

5 鷲の巣村エズ
地中海を望む険しい山頂に鷲の巣村と呼ばれるエズがあります。
この要塞化した村は長い戦乱を生き延びる為でした。

6 小国モナコ
モナコは争いを経て、また小国として活路を見出さなければならなかった。
それが断崖絶壁の王宮であり、高級リゾート地への道でした。

7 旅行2日目のまとめ
ニース空港からエズとモナコ、そして宿泊地のニースまでの景色とフランス最初の食事を紹介しました。

8 大リゾート地のニース
ニースの海岸と旧市街で露店が並ぶサレヤ広場を紹介しました。



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*4


9 ニースからエクス・アン・プロヴァンスまでの眺め
バスの車窓から見たブドウ畑とセザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山を紹介しました。

10 古都エクス・アン・プロヴァンス
ここは陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都、セザンヌの生誕の地であり晩年を過ごした地でもありました。

11 古都アルル
古代ローマの遺跡が残り、ゴッホが愛し傷つき去った古都アルルを紹介しました。
ローヌ川の突風を遮るための糸杉がゴッホの思いを彷彿とさせます。

12 要塞都市アヴィニョン 1
巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市は巨大でした。
衰え始めていたはずなのに、教皇の権力がまだ絶大だったことに驚いた。

13 要塞都市アヴィニョン 2
アヴィニョン旧市街と市場の自由散策を紹介しました。


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*5


14 ポン・デュ・ガールの水道橋
山間の川に架かる巨大なロ―マ時代の水道橋を訪れました。
この近くの山に氷河期の人類最古の洞窟壁画(ショーヴェ)がありましたが、行くことは出来ませんでした。

15 ポン・デュ・ガールからリヨンへ
ローヌ川沿いの平野を眺めながらリヨンに向かいました。

16 大都市リヨン 2
フランス第2の都市リヨンの大聖堂とその展望台、そして旧市街を紹介しました。

17 大都市リヨン 3
新市街のベルクール広場と、その後の自由散策、夕食を食べたレストランの光景を紹介しました。

18 リヨンからボーヌまでの景色
リヨンからボーヌまでの車窓からの景色を紹介しました。

19 中世の施療院オテル・デュ
ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介しました。
医術史に関心がある方には特に興味深いものがあるでしょう。


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*6

20 ボーヌからストラスブールまで
共にワインで有名なブルゴーニュからアルザスの風景を車窓から眺めました。

21 ストラスブール 夕刻と朝に
夕刻のストラスブール旧市街と朝のホテル周辺を紹介しました。
この地を訪れるのは長年の夢で、その上二泊も出来て大満足でした。

22 ストラスブール旧市街1
朝、いよいよ待ちに待った旧市街、プチットフランスと大聖堂を観光しました。
この都市は交易で栄え、活版印刷誕生の地になった。
この豊かな都市民の熱意が数百年をかけて大聖堂を作り続けた。
一方で周辺の貧しい農民の不満が宗教改革の起爆剤となった。

23 ストラスブール旧市街2
主に大聖堂の雄姿と内部を紹介します。

24 可愛い町、コルマール
川縁に並ぶ木骨組み家屋が、まるで中世の御伽の国に迷い込んだような感じにさせる町でした。

25 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル
ここはワイン畑の丘陵地にある小さな村、アルザスワインのワイナリーでも有名な所です。
実は、かつてこの村は城壁で囲まれた要塞でした。


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26 ストラスブール最後の夜
ストラスブールの最後の日、夕方から自由散策を始めました。
ホテル近くの大型スパー、川沿いの旧市街、夕食のレストランでのハプニングを紹介しました。

27 アルザスに想う
アルザスの風景を紹介しながら、この地が大国の狭間で如何に戦火に見舞われ続けたかを紹介しました。
そして今、人々は何も無かったように平和に暮らしています。

28 ストラスブールからランスへ
フランスの東北部、ロレーヌ地方からシャンパーニュ―地方の景色を紹介しました。
この地はフランスの源流、フランク王国誕生期の中心に位置し、このことが後にジャンヌ・ダルクを生み、ランス大聖堂の名声へと繋がった。

29 ランスの大聖堂 1
大聖堂を取り囲む町の景観を紹介しました。

30 ランスの大聖堂 2
大聖堂の外周を一周し雄姿を紹介しました。

31 ランスの大聖堂 3
大聖堂の内部を紹介しました。



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*8

32 サン・レミ聖堂
同じランスにあるロマネスク様式で建てられたサン・レミ聖堂を紹介しました。

33 ランスからパリへ
ランスからイルドフランスの景色、パリとホテルから見た夕陽を紹介しました。
パリには3泊するのですが、この日はモンサンミッシェルに行くために途中一泊した。

34 パリからモンサンミッシェルへ
モンサンミッシェルがあるノルマンディー地方の景観を紹介しました。
バスで走行した午前中は曇りだったこともあり、物悲しい雰囲気が漂っていた。

35 モンサンミッシェル 1
対岸のホテルからモンサンミッシェル入口近くまでの景色を紹介しました。

36 モンサンミッシェル 2
歩いたモンサンミッシェルの城壁を紹介しました。
巨大さに圧倒されました。

37 モンサンミッシェル 3
城内のメインストリートとその先にある修道院までを紹介しました。


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*9

38 モンサンミッシェル 4
巨大で打ち捨てられた修道院の中を紹介しました。

39 モンサンミッシェル 5
修道院を出て外周を廻り、村の暮らしを感じさせる裏道を下りました。

40 モンサンミッシェルからロワールへ
王侯貴族が愛したロワール地方までの景色を紹介しました。

41 シュノンソー城 1
女性城主達が住み続けた優美な城の外観と庭園を紹介しました。

42 シュノンソー城 2
城内を紹介しました。

43 シャンポール城に向かう
ロワール地方のもう一つのシャンポール城に向かい、ロワール川沿いを走りました。



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44 シャンボール城
こちらは巨大で複雑な形をした城で、庭園と言うか森が巨大でした。
外観を見るだけでした。

45 トゥールへ
宿泊と夕食の為にトゥールに向かいました。

46 シャルトルへ
ロワール渓谷からイル・ド・フランスの大穀倉地帯の景観を紹介しました。

47 シャルトル 1
シャルトルの町と初期ゴシック建築のシャルトル大聖堂の外観を紹介しました。

48 シャルトル大聖堂の内部
シャルトル大聖堂の内部、特にステンドグラスが美しかった。

49 ベルサイユ宮殿へ
シャルトルからベルサイユ宮殿の入口までの景色を紹介しました。



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50 ベルサイユ宮殿
ベルサイユ宮殿の内部を紹介しました。

51 前衛都市ラ・デファンスに泊まって
パリの宿泊地ラ・デファンスの2日間を紹介しました。
近代的なビル、広場での交流、大型スパーを紹介しました。

52 ルーブル美術館
車窓からのパリとルーブル美術館の代表的な美術品を紹介しました。
ルーブル美術館は三度目の訪問になり、ミロのヴィーナスは京都も含めて思い出深い対面となりました。

53 パリ散策 1
5回に分けて地下鉄で巡ったパリの下町を紹介しました。
この回は、アンファン・ルージュの市場が主になります。

54 パリ散策2
パリ誕生期を偲ばせるサン・ジェルマン・デ・プレ教会の紹介でした。

55 パリ散策3
大学の街カルチエ・ラタンからシテ島までの散策を紹介しました。
アラブ世界研究所からの眺めが良かった。


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56 パリ散策4
パリ最古の通りで、様々な飲食店が並ぶ庶民のムフタール通りを紹介しました。

57 パリ散策5
ムフタール通りの人々との触れ合い、地下鉄の風景を紹介しました。

これで目次は終了です。


*フランスを旅して思うこと
海外旅行は高揚の連続です。
旅では好奇心が旺盛になり、建築や景観を見て、文化や人に触れ、多くのことを学ぶことが出来ます。
そして旅行前に抱いていた疑問の多くに、それなりの答えが得られます。
中には、より深い疑問が生まれることもありますが、これも励みになります。
また以前から抱いてたイメージの多くは覆され、多くは好印象を得ることになる。
今回もそんな連続でした。


南仏に始まり、アルザス、ノルマンディー、パリは長年の戦火に見舞われた来た。
印象派の画家達が好んだ太陽と緑豊かな地中海沿いの南欧、ライン川沿いに開けたワイン畑が広がる丘陵地のアルザスは幾度も戦火をくぐり抜けた。
アルザスは第二次世界大戦まで争いが続いていた。
この間、南仏とアルザスでは国や領主が頻繁に変わった。
そして今は言葉や文化が混じり合い、かつての憎しみは消えており、観光客が訪れる平和な地域となった。

私はこのアルザスの歴史に「戦争と平和」の答えがあるように思えた。
残念ながら、今回の旅行では納得のいく答えを得ることが出来なかった。
しかし、一つの確信を持つことが出来た。
それは隣国同士が融和策を主導すればアルザス、ストラスブールのように安寧と平和が訪れるのだと!


ノルマンディー(フランス北西部)の屋根瓦や家の作りに他のフランス地域との違いがあり、かつてヴァイキングがここに住み着いたことを連想させる。
また、パリは幾度もヴァイキングの侵略を受けていた。
フランスを建国したフランク人も、植民し攻撃したヴァイキングも元をただせば同じゲルマン人だ。
また英仏戦争を戦い続けた英国もゲルマン人(アングロサクソン)とヴァイキングの作った国だ。
そして、今は英仏で異なった国造りを行い、フランスでは両者は溶け込んでいるように見える。

ヨーロッパの歴史は、日本から見れば民族の衝突が繰り替えされた悲愴なものに思える。
その一方、この民族や宗教の違いを乗り越え、仲良く暮らす工夫が成功している唯一の地域だろう。

今回、ゴシック建築の歴史を身近に感じることが出来た。
シャルトルでゴシック建築が生まれたのは、フランスの初代王朝がパリを首都にしたことに起因しているいたことを実感できた。


一番の収穫は、多くの楽しくて温かいフランス人に接したことでした。
セーヌ川クルーズでの歓迎、様々場面でカメラを向けた時に返してくれる笑顔が忘れられない。
中には機嫌を悪くする人もいたが。

エクス・アン・プロヴァンスで飛び入りした昼食レストランでの親近感溢れるウエイター、リヨンの地下鉄で道を教えてくれた移民家族の親切な青年、日本から予約していたストラスブールのレストランでのハプニング、ムフタール通りの魚屋のユーモア溢れる青年、プラス・モンジュの公園で会った喜びを隠さない女性、ラ・デファンス広場の親子の親しみ易さなど、良い思い出が多い。

様々な地で、キャンピングカーや自然が残る河畔で余暇を楽しむ家族の多いのに驚いた。
人生の楽しみ方が日本と異なり、羨ましく思った。

大都市では肌の色が異なる多くの人々が仲良く暮らし、結婚もしていることに感銘を受けた。
移民を受け入れることは分裂や社会の停滞を生み出す恐れがあると不安もあったが、むしろこれを乗り越えているフランスを力強く思えた。

こうして多くのことを体験し学び、フランスと旅行に感謝し旅行記を終えます。
長きにわたりお読み頂きありがとうございました。



posted by 学 at 08:35| 兵庫 ☁| Comment(0) | 連載中 フランスを巡って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

フランスを巡って 57: パリ散策5

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今日でパリ散策とフランス各地の紹介を終わります。
今回は、道行く人々や公園で出会った人を紹介します。
次回は紀行のまとめになります。



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< 2. 散策マップ >

今回紹介するのは、前回につづいてムフタール通りです。
場所は地図の番号4の青枠部分です。
この通りを出て、地図の赤矢印5から地下鉄を乗り継いで、ホテルのある左上のラ・デファンスに戻りました。


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< 7.公園でダンスする一団 >

地下鉄駅のすぐ近くの公園でダンスをするグループが目についた。
奇抜な衣装に身を包んだ女性ばかりが踊り、二人の男性はリズムを取っているようでした。
実に楽しそうでした。

何かカーニバルでもあるのかと思い尋ねると、違うとの答えが返って来た。
すると一人の女性が躍り出て「結婚!!」と言って、満面の笑みを浮かべた。
どうぞお幸せに!!

それが下の写真です。

この公園には様々な肌の色の人々が見える。
これがフランスの素晴らしさであり、強さなのかもしれない。


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< 8. 地下鉄駅 1 >

上の写真: 7号線の「Place Mongue」から乗車した。
下の写真: 「Place d’italie」で6号線に乗り換えた。


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< 9. 地下鉄の眺め >

上の写真: 車内の光景。
様々な人々が隣合い、そこには談笑と緊張が隣り合っている。

私が30年以上前、パリの地下鉄に乗ろうとした時、人種か何かの区別で安心できる後端の車両に乗るように勧められたことがあった。
時は過ぎ、至る所で様々な人種が自由に暮らすようになっているようだ。

下の写真: 地下鉄6号線を選んだのは、セーヌ川を越えながらエッフェル塔を眺めたかったからでした。


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< 10. 地下鉄駅 Charles de Gaulle >

ここで地下鉄6号線から1号線に乗り換えた。
ここはちょうど凱旋門の下になります。


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< 11. ラ・デファンスに戻った >

ラ・デファンスに戻ったのは午後8時半を過ぎていた。
まだ明るく、「グランド・アルシュ」の下の階段には多くの市民が寛いでいた。


こうして私達は半日のパリ散策と13日間のフランス旅行に幕を閉じました。

次の日、2017年5月28日の午後、パリ発の航空機で帰国の途に着きました。
半年以上にわたる私のフランス紀行にお付き合いくださり、ありがとうございました。

次回は、旅行記の目次とまとめを記します。



ラベル:観光 写真 旅行
posted by 学 at 14:31| 兵庫 ☁| Comment(0) | 連載中 フランスを巡って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月26日

何か変ですよ! 92: 何が問題か? 15: なぜ改革から逃げるのか?


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日本の社会経済の指標、評価ランキングは益々低下の一途です。
にもかかわらず日本は一時しのぎを繰り返すだけで、痛みの伴う成すべき改革から逃げています。
この不思議を探ります。


*今の日本の状況を概観します


以下のグラフから、日本の所得水準、幸福度、経済力の低下が見て取れます。


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< 2.悪化する日本 >

上のグラフ: 日本のワーキングプアは年々増加し、OECD内でも順位を落としています。
ワーキングプアはまともに働いても貧困線以下の所得しか得られないことを指します。

中央のグラフ: これは主観的な幸福度の世界ランキングで、日本は60位です。

下のグラフ: 主要国の中でも日本だけは特許出願件数は低下の一途です。

上二つのグラフで必ず上位にある国は北欧(デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)です。



*改革から逃げる様々な言い訳

*A: 改革は漸進的であるべきだ!


これは保守論客の西部邁が指摘した保守思想の一つです。

このことは理解できます。
人間は不完全なものであり、未経験で画期的な社会改革は危険と言えます。
漸進的であることは、確かに大きな失敗を犯す可能性を低下させます(共産主義国家の失敗)。

しかし、これとて完全でないことは明白です。
例えば、次の事を考えれば分かり易いでしょう。

衰退する企業が、いくらコストダウンを続けても、漸進的な改善では存続することは難しい。
つまり技術や商品にブレイクスルー(飛躍的な革新)が必要なのです。

それでは社会や政治についてはどうでしょうか?
前回、英国の19世紀末の衰退で見たように、権力を握った勢力(金融資産家)は利益拡大(海外投資)に励みこそすれ、たとえ国が衰退(産業停滞)しようが既得権益(金融の自由)を制限するようなことはありませんでした。

このような場合、たとえ漸進的であっても効果ある改革が出来ないから国や文明は衰退し、または暴動や革命が起きるのです。

結論から言えば、保守も革新も程度問題であり、状況に応じた改革手法を選択すべきです。


*B: 万年野党が頼りないから、与党に任せるしかない!

野党が頼りないのは事実です。
野党はひたすら反対か批難するだけで、理想は語るが具体的な対案を持たない。
これも一面正しいと言えるでしょう。

しかし、これで済む問題でもないはずです。
大きく二つの理由があります。

一つは、今の凋落は日本の万年与党の政策のつけだと言うことです。
もう一つは、これを牽制出来る健全野党が育っていないことです。


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< 3. 1990年代に起きた事 >

上のグラフ: 日本の公共投資は1990年代に猛然と増加しています。
青棒、左軸が金額を示す。

下のグラフ: これまた非正規雇用率(赤折れ線)が1990年代から急伸しています。

この時期に起こった二つのことは密接に関係していた。



*政策のつけとは何か?
それは凡そ1985年から始まったと言えます。
プラザ合意による円高誘導で日本は経済が低迷し、政府はこの挽回の為に突出した公共投資と金融緩和を来ない、やがてバブル経済に突入します。
そして1991年のバブル経済崩壊が、経済を長期低迷させることになった。
この一連の出来事は、貿易摩擦と円高に喘ぐ米国が日本に圧力をかけ、これに従った与党政権のあがきの結果だと言えます。
この間、政権は米国が要求する構造改革、金融ビッグバンを行い、米国の望む自由主義経済圏に完全に突入していきます。
ここまでは野党政権であっても同じことをしたかもしれませんが。

しかし、このバブル崩壊後の不景気のさなかの1995年頃から、万年与党らしい政策の影響が今の日本社会を作りだすことになりました。
それは先進国中のあらゆる順位(幸福、経済、貧困、報道、男女平等、労働等の評価)が低下し続けていることに如実に現れています。

目立つものとしては非正規雇用の増加と賃金低下、一方でやや遅れて起きた企業の内部留保の増加でした。
これは今も更新中です。
これらは労働の規制緩和などに代表される企業優先の姿勢がもたらしたものです。
まさに1994年の「舞浜会議」で財界が望んだ方向に事が進んでいます。

この与党の一連の政策は、米国追従と財界優先の姿勢から生じたもので、さらには自由主義経済への固執にあります(言い替えれば惰性と既得権益擁護でしょうか)。

この結果、日本は長期のデフレ、低経済成長、ワーキングプア増加に陥りました。
さらに世界に類を見ない累積赤字の増大、米英に続く格差拡大が急速に進行しています。
また少子化対策の遅れによる労働人口減と高齢化社会の到来が重なります。
この結果、現在進行中の年金などの福祉政策の大幅な縮小がある。

万年与党が政権に居座り続けたことにより、つい30年前まで誇ることの出来た日本の快進撃は、単に思い出に過ぎなくなった。
1980年代、多くの人が別荘地、リーゾトやゴルフ場の会員権を買い漁り、いつまでも景気上昇が続くと信じたはずです。
しかし、それは束の間の夢であり、長い喪失感と借金返済が現実に続くことになったのです。

つまり、与党には政権を担った実績はあるのですが、このまま舵取りを任せることは没落を深めることになるのです。
しかし野党のだらしなさは頂けません。



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< 4. その後に起きた事 1 >

上のグラフ: 賃金が1997年から低下し続けています。
下のグラフ: 企業の内部留保が1999年頃から急激に伸びていることがわかります。

つまりこれらは与党が長年積み上げて来た成果なのです。



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< 5. その後に起きた事 2 >

これも成果と言えるでしょうが、残念ながら日本の衰退を物語っています。

日本の累積債務(赤い棒グラフ)はGDP比率で世界最大級でかつ増加中です。
一方、日本は世界一の対外純資産国(=資産―借金、青い棒グラフ)です。

楽観論者はこの資産によって債務を減らすことが出来るはずだと訴える。
しかし、それは不可能です。
誰が、海外の高利回りの証券から利率の低い内国債に買い替えるでしょうか。
(もし国債の金利が上がれば、余計に悲惨な状態になります。)
そんな善意に期待出来ないことは、世界一の対外純資産国であった英国が19世紀末に衰退した事実を挙げるまでもなく、常識で分かるはずです。
結局、体制擁護派は無責任に煽っているだけなのです。








*万年野党の悲運
先進国は概ね二大政党を目指し、少数政党乱立や一党独裁を避ける選挙制度を取り入れています。
これは長年の民主主義獲得の経緯から生まれたもので、政策論議を深め、多数決による弊害を避ける為のものでした。
残念ながら、日本では戦後まもなくしてこれが機能しなくなりました(戦前が良かったわけでもないが)。

日本の万年与党は自由主義経済を国是とする保守政権(米国共和党など)にあって、珍しく財政支出の大きな政府になっているが、これは万年野党が反対し対案を出し続けることでなったとする見方もある。
しかし、私は別の理由によるものだと思う。

ところで、やはり万年野党の存在はどう見ても民度の高い国、先進国の中では異常であり、適切な役割を果たしていない。
つまり長期に及ぶ与党政策の歪を是正するためにも、民主主義の危機を防ぐ為にも、強い野党の存在が不可欠です。

現実は非常にお粗末ですが、志ある人も、芽も僅かばかりではあるが残っている。


*なぜこのようなことが起きているかについて考えます。

結論から言えば、日本には未だにパトロネージが強く根付いているからだと考えます。

「パトロネージ・システムとは権力を持つ個人(パトロン)が、その特権を利用して、資源を恣意的な決定によって、自己を支援する集団(クライアント達)に分配するシステムです」

少し馴染みが薄い言葉かもしれませんが、世界中の後進国や南欧ではよく見られる政治状況です。
洋画で言えば「ゴッドファーザー」、日本で言えば議員の「世襲」や「看板、地盤、鞄」に代表される状況です。

もっと分かり易く言えば、「日頃お世話になっている顔役に投票する村人」のイメージです。

私は都会の郊外で生まれたが、現在、のどかな自然に恵まれた所に住んでいます。
ここで都市部と田舎の政治意識の違いをいやと言うほど知らされました。
皆、良い人なのですが、政治感覚や選挙行動に驚かされます。

先ず、人々は政治談義をほとんどしないのですが、あってもその範囲は村や町ぐらいまでで、中央政治を語る人は稀で、まして世界情勢とは無縁です。
しかし選挙では彼らは熱心になります。
そして、思わぬ人から投票を依頼されることもあり、断わりでもしようものなら、「村の恩人に恥じないのか!」と恫喝されることもあります。
つい最近まで買収もよく起きていました。

二大政党制を目指した小選挙区制度改革ではあったが、派閥を崩す効果だけで留まってしまい、逆にパトロン(総裁や首相)の権力を巨大化させてしまった。
そのあげく、先進国の議会制民主主義では起こるはずのないことが権力者周辺で頻発している。
つまり取り巻きや取り入ろうとする輩が犯罪やたかりを平然と行い始めた。


*なぜパトロネージ・システムが蔓延るのか?

二つの要因があると思います。

一つは、政治意識、歴史観、社会意識が未発達なことです。
これらが低い一因は、以前も指摘しましたが1970年代の学生運動後、学校教育の場で、政治が禁句になったことにあります。
政府は学生運動の再燃を抑える為に行ったのだが、これが今大きな災いとなっているのです。
例えば、北欧では小学生から環境問題、さらに上級では政治活動も教育の一環としておこなわれており、これが民主主義を支え好循環を生んでいるのです。

今一つは、帰属意識が高いことで、これは田舎ほど高いようです。
これは古い農耕民の心性の名残であり、良さもあるので、一概に否定することは出来ません。
しかし、その欠点は良識を失う会社人間や自殺の多さ、また内部告発が出来なく自浄作用が働ない組織を生み続けることになる。

分かり易い事例としては、村人に行事に対する意見を求めた時、極端な場合は個人の意見は控えたい、隣近所との協議の上でと逃げられることがある。

またワンマン企業では、従業員は陰で社長のパワハラを嘆きながら、一方で、依存しており、従順ぶりを装うことになる。

これらの社会や組織は一致団結して行動する分には効果を発揮するが、社会変化への不適応を起こしやすく、また暴走を食い止めることが困難です(1920年代のドイツ、イタリア、日本が好例)。

残念なことに、私にはこの政治文化を改善する方法が見つからない。
ただ地方の選挙制度と国会議員の育成方法に何らかのステップアップの術があると思う。



*C: 資本主義以外に進むべき道はない!

私がブログで日本の現状を憂い、体制の転換を図るべきだと指摘すると、資本主義は完璧であり、他は無いと反論されることがあります。

結論から言えば、資本主義は空気のようなもので否定する必要はありません。
大体、資本主義が唯一無二の完璧な政体と考えることもおかしい。
帝国主義は資本主義から生まれ、さらには互いにおぎなっていたのです。
つまり、国民が資本主義をコントロールすることが必要なのです。

ここ1世紀だけを見ても、資本主義社会の欧米の状況、格差や福祉は国よっても、時期によっても大きく差異がありました。
1950〜1970年代の日本や米国、西欧は概ね格差が少なく経済成長を遂げた時期でした。
その前後は逆の時代でした。
それは反動の時代と呼べるかもしれません(当然、一部の層には良い時期でしたが)。

今の反動の時代は、自由主義経済の復活と更なる金融業重視によってもたらされたものです。
これによる弊害は、これまでに説明して来ました。

問題は、これらを改めることに不安を抱く多くの人と、それを不可能で危険な行為と反対するエスタブリッシュメントとこれに連なるエコノミストの存在です。
既得権益を脅かされるエスタブリッシュメントが反対するのは当然です。

しかし国民は、かつて国民を守る為の規制と権利擁護により、社会が今より順調な時代、1950〜1970年代があったことを知って頂きたい。

重要な事は、多数の日本国民が英米をお手本とする狭窄な視野から脱することです。
北欧やドイツ、フランスは同じ資本主義国でも異なった道を歩み、豊かさと繁栄を手に入れています。
特に北欧は1930年代頃から、高福祉政策を採り始め、高負担ながら高い所得と権利の尊重と幸福を共に得ています。
このために北欧は世界から孤立するのではなく、旺盛な貿易をやり、有名な多国籍企業が活躍し、PKO派遣でも貢献しています。



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< 6. 北欧の経済 >

上のグラフ: 2004〜2008年平均の輸出などのGDP比率。
如何にスウェーデンが国際的(開放経済)であるかがわかります。

下のグラフ: 如何に北欧各国が日本より高い経済力を維持しているかがわかります。

これだの開放経済であっても国内の労働者の権利を守り、経済発展を遂げることが出来ているのです。


つまり、「国民の権利を重視する政策は、自由主義経済が蔓延するグローバルな世界では取り残され、やがて破局を迎える」と恫喝する多くの体制擁護派のエコノミストの指摘は嘘なのです。



*まとめ

これまで見てきたように、日本が改革出来ないとされる理由は実に他愛ないものでした。
多くは体制擁護派、既得権益層、自由主義経済信奉者らの必死のアジテーション(煽動)で、想定外を無視した無責任な発言に過ぎない。
しかし、残念なことにこちらの方が訴える力はある。

最後に、私が皆さんに望むことは、今後日本が衰退していくことを諦めたとしても、万年野党を生む政治文化だけは何としてでも突き崩して頂きたい。
しかし、これとて国民の意識が高まらない限り不可能で、これでは堂々巡りです。


次回に続きます。





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2018年01月23日

フランスを巡って 56: パリ散策4

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今日はパリ最古の通り、市民に人気のムフタール通りを紹介します。
この通りには多くの小さなマルシェや多国籍のレストランが並んでいます。
私達も、1時間の間につい2回も食事してしまいました。


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< 2. 散策マップ >

上の地図: 上が北。
赤矢印4のシテ駅から地下鉄に乗り、途中オデオン駅とジュシュー駅で乗り換え、黒矢印5のプラス・モンジュ駅で降車しました。

下の地図: 左が北。
プラス・モンジュ駅を出て、Sから歩き始め赤線を右端まで行き、折り返して黄線のEで、往復1.2kmの散策を終えた。
散策したのは2017年5月27日(土)の18:00から19:30です。
Fは生牡蠣を食べた魚屋、Rはタルトを食べたレストラン、Pは楽しい人々と出会った公園です。


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< 3. 地下鉄駅 >

上の写真: 乗車したシテ駅。

下の写真: 乗り換えたオデオン駅。


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< 4. ムフタール通りに出た >

上の写真: 乗り換えたジュシュー駅。

下の写真: プラス・モンジュ駅を出た時は人出が少なかったが、ムフタール通りに出て、時間が経つうちに人が増えて来た。


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< 5. 楽しい! >

下の写真: このおじさんが手回しで管楽器を鳴らし、名調子の高い声で歌っていました。
笑顔と笑い声が素敵な人でした。


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< 6.教会 >

下の写真: 地図の右端付近にある教会。


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< 7. 折り返し付近 >

この辺りで散策を折り返しました。
通りや広場のテラスでは多くの人が食事と会話を楽しんでいました。



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< 8. 様々な店先 >


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< 9. 牡蠣を食べた魚屋 1 >

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< 10. 牡蠣を食べた魚屋 2 >

最初この前を通った時、この店でカップルが牡蠣を食べていたのを見ていました。
戻る途中、無性に食べたくなり意を決して店に飛び込みました。

声をかけると若い店員がメニューを持って来ました。
私達はわけも分からず、中間の値段のものを注文しました。

そして出て来たのが、この写真の生牡蠣とワインでした。
牡蠣は冷えていて実に美味しかった。
さらにワインがびっくりするほど美味しかった。

この日より、私達はシャルドネの虜になりました。
帰国後はフランス産やチリ産などの安いシャルドネを何本か買っては飲みましたが、二度と同じ味に出会うことはなかった。

このように美味しいものに出会うのも旅の楽しみです。


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< 11. メニュー >

これは注文時のメニューです。
帰国後、内容を調べました。

一番上のオレンジの下線は生牡蠣のフランス内の名産地を示し、「Hunters」は牡蠣を意味する。
オイスターの表示はどこにもなかった。
次の下線は牡蠣の等級を示すようです。
三番目の下線はワインのグラス売りで、4番目の下線はワインの種類「シャルドネ」を示す。
シャルドネは「白ワインの女王」と呼ばれ、シャルドネはブドウ品種の名前です。

この時、面白いエピソードがありました。
注文を受けた青年が、ワインのボトルを持って来てテーブルに置き、私達が驚いたのを見ると彼は笑みを浮かべ、さっと引き下がり、二つのグラスワインをもって来ました。
これは彼の冗談(ユーモア)で、私達を精一杯歓待してくれたのです。

実は、この青年はどうやら写真9の夫婦の息子のようで、このお父さんは私達観光客なんか相手にするなと言う態度を取っていました。
今回のフランス旅行では、幾度も若い人達の好意を感じることがありました。

海外で個人的にレストランなどに入るのは不安で失敗もしてきましたが、そこには束の間の出会いがあり、実に楽しいものとなります。




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< 12. タルトを食べた店 >

写真のように道路に面したショーケースにたくさんのタルトが並んでいます。
東南アジア系の女性が一人で店を切り盛りしていました。
非常に小さな店ですが、結構、お客さんが途切れず買いに来ていました。
私達は中に入って食べました。
焼き立てではない為か、特に美味しいとは思いませんでした。


次回はムフタール通りの残りとラ・デファンス到着までを紹介します。






posted by 学 at 07:58| 兵庫 🌁| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月21日

フランスを巡って 55: パリ散策3

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今日はカルチエ・ラタンからシテ島までの散策を紹介します。
ルートは大学街を抜けアラブ世界研究所からノートルダム大聖堂までです。



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< 2. 散策ルート、上が北 >

赤線が散策ルートで、地下鉄駅M1「クリュニー・ラ・ソルボンヌ」から歩き始め、地下鉄駅M2「シテ」まで行きました。
Sはソルボンヌ大学、Cは立ち寄ったカフェ、Aはアラブ世界研究所、Caはノートルダム大聖堂です。
私が歩いたパリ大学横の通りはエコール通りです。

このセーヌ川左岸のエコール通り一帯はカルチェ・ラタンと呼ばれ、ここはパリ誕生期からキリスト教の中心地で、やがて神学教育の場から現在の大学の街となりました。
シテ島はパリの起源となった所で、古くは様々な侵入者、バイキングなどを迎え撃つために要塞化した島でした。


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< 3. 地下鉄駅から地上に出る >

「クリュニー・ラ・ソルボンヌ」駅を出て、サン・ミシェル大通りを少し行き、左に曲がりエコール通りに入った。



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< 4.パリ3・4大学(ソルボンヌ) >

2枚の写真は共にパリ大学(地図S)ですが、この一帯にはパリ大学の13校が集中しており、ソルボンヌの名が冠せられている大学は上記含め3校だけです。


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< 5. エコール通りの光景 >

下の写真: 通り沿いにある公園。

途中、本屋や人通りが少ないので気が付いたのですが、私は散策ルートを間違っていました。
私が行きたかった所は学生街のあるラ・ソルボンヌ広場で、サン・ミシェル大通りを一筋早く左に曲がってしまっていた。
結局は、このまま歩いて行きました。


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< 6. カフェ >

上の写真: エコール通りの突き当りにパリ6・7大学が見える。
下の写真: パリ6・7大学の手前を左に曲がるとカフェ(地図C)があった。
カフェにカメラを向けると、テラス席の青年がピースサイン(V字の指)で応えてくれた。
トイレ休憩をするために中に入り、ドリンクを注文した。


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< 7. アラブ世界研究所 >

上の写真: カフェの中。
下の写真: アラブ世界研究所(地図A)。

当初、私がここに来たのはアラブの情報、アラブ料理、屋上からの眺望が目的でした。
中に入るとたくさんの人がおり、特別展が開催されていて、アラブ関係の書店もありました。
しかし、結局は屋上からの眺望を楽しむだけにしました。


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< 8. アラブ世界研究所からの眺め >

上の写真: 眼下にセーヌ川、左手にノートルダム大聖堂が見えます。

下の写真: 北方向を中心にパノラマ撮影した。
中央はサン・ルイ島です。

この屋上からの眺望は北方向には開けているのですが、南方向には障害の建物があります。
入場は無料です。


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< 9. セーヌ川の左岸 1 >

アラブ世界研究所を出て、セーヌ川沿いを行きました。


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< 10. セーヌ川の左岸 2 >


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< 11. シテ島に入る 1 >

多くの市民がそれぞれの楽しみ方でセーヌ川で憩っていました。



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< 12. シテ島に入る 2 >

上の写真: 橋の上からサン・ルイ島、東側を望む。

下の写真: ノートルダム大聖堂の正面。
中に入ろうと思ったのですが、大勢の人が行列をなしていたので止めました。

皆さんに注意を一つ!
大聖堂横を歩いていると南西アジア系の数人の若い女性が「アンケートをお願いします」としつこく寄って来ました。
恐らくはアンケート用紙に記入している間に財布をスルのが目的だと思います。
新手のスリでしょう。


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< 13. シテ島中央 >

下の写真: 最高裁判所。


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< 14. 花市 >

中央に緑が一杯の場所があり、ここが常設の花市でした。


次回に続く。


ラベル:写真 旅行 観光
posted by 学 at 13:50| 兵庫 ☔| Comment(0) | 連載中 フランスを巡って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月19日

何か変ですよ! 91: 何が問題か? 14: 英国はなぜ衰退したのか?


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< 1. ロンドンの万国博覧会、1851年 >


今回は、繁栄を享受していた大国がなぜ没落したかを見ます。
そこでは今の日本とまっく同じことが起きていた。
誰しも自分の不幸の予兆を知りたくはないが、知れば心構えが変わるかも!





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< 2.栄枯盛衰 >

上は1876年のロンドン、下は20世紀初頭の米国の写真です。


*はじめに
かつて大英帝国は軍事的・経済的に世界を席巻し西欧文明、いや人類文明の模範でした。
しかし、その絶頂期にあった19世紀の後半からわずか数十年、急激に生気を失い、覇者の座を失った。
覇権国の栄枯盛衰は世の習いではあるが、資本主義社会で起こったその衰退過程が日本の低迷と恐ろしく似ているとしたら、どうでしょうか?

皆さんにこの英国の歴史から感じて頂きたいことが三つあります。

A: 衰退の原因はその社会が作り出していた。
B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。
C: 間違った手段で起死回生を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

歴史は過ぎ去ったものであり、まして外国のことなど関りがないと思われるかもしれないが、恐ろしいほど似たことが起きていたのです。



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< 3.英国の繁栄と衰退 >

赤枠は繁栄を極めた英国が19世紀後半から転落していく様子を示す。


*繁栄を極めた英国
17世紀、英国はピューリタン革命と名誉革命を経験し、いち早く議会が王権を牽制するまでになった。
16世紀以来、海外の領土を拡張していたことと、上記の社会体制の変化が相俟って、世界で最初の産業革命が英国で1760年代に興った。
19世紀半ばには「世界の工場」と称され、1851年にロンドンで始めて開かれた万国博覧会はその自信の現れだった。



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< 4. 帝国主義に拍車がかかる >

上は1886年の英国の植民地、下は1921年のものを示す。
この間に英国は中東とアフリカに侵略を開始した。
英国では何が起きていたのか?


*一方で破滅への道が準備されていた
1825年、過剰生産による恐慌が英国で始めて起こり、その後ほぼ10年ごとに恐慌は起こったが、19世紀前半の恐慌は主として英国内にとどまっていた。
しかし1857年に初の世界恐慌が勃発し、1873年の恐慌ではヨーロッパ(英国も)は22年間にわたる経済不況へと突入した。

一方、ヨーロッパ大陸ではフランス革命(1789年)が起こっていたが、その後のナポレオン戦争への勝利が列強による軍事同盟(ウィーン体制)を生み、逆に国内の自由主義を19世紀半ばまで抑圧することになった。

恐慌の翌年の1874年、英国では総選挙で帝国主義的外交を唱える保守党(貴族、大資本家が支援)が圧勝し、スエズ運河買収(1875年)、インドを直轄領からなる帝国化(1877年)へと推し進めることになった。

こうして英国を含めたヨーロッパ諸国は競い合って世界を植民地化し、ついには二度の世界大戦へと突き進んだ。



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< 5. 英国の衰退要因 >

上左のグラフは1914年の英国の資本輸出、上右のグラフは英国の資本輸出の推移(1816−1914年)を示し、下のグラフはその結果として工業生産高が伸びなくなっている状況を示す。
英国が衰退した最大の理由は膨大な資本輸出(他国の建設や設備への投資)にあり、これが国内投資を激減させ、国内産業の競争力の低下を招き衰退に至った。



*英国は自ら衰退の道を歩んでいた
二度の大戦で多くの国は戦火を被ったが、衰退する英国を尻目に米独日などは経済大国へと躍進することになる。
英国の衰退は1880年代には始まっており、20世紀の初頭には米独に追い抜かれていた。
衰退は英国で進行していた社会・経済の変化にうまく対応できなかったことによる。

英国は産業革命をやり遂げてはいたが、鉄と石炭の産業が中心であり、次代を担う電気やガスを中心とする重化学工業には対応出来ていなかった。
これは新規技術導入に消極的だったことによるものだが、かつての企業家精神は半世紀余りの間に完全に廃れていたからでした(保護政策)。

何が英国で起きていたのか?
産業革命により貿易は拡大し、人口は都市に集中し、都市労働者の生活スタイルが変わり、食料品や日用雑貨の大量輸入が不可欠になり、自由貿易が進められた。
すると国内生産の農作物価格が暴落し、大規模農場経営は行き詰まり、貴族(ジェントルマン)は資産を不動産から金融資産へと変えていった。
一方、勃興した産業資本家も金融資産を増やしていた。

産業革命当初、英国の輸出は旺盛で貿易黒字は優勢であったが、やがて輸入が上回り万年赤字になった。
しかし、世界トップシェアを占める海外貿易に伴う船賃収入や、それまでに蓄えた外貨(貿易黒字)による海外投資の利益が貿易赤字を上回るようになった。
こうして英国は世界の新興国や発展途上国に投資し、ますます資本家は貪るように海外投資で利益を得るようになっていった。
こうしてロンドンシテイは世界の金融をリードするようになったが、英国内への産業投資は尻すぼみとなり、競争力は衰えるばかりだった。
金融資本家は急成長し資金が不足する米国やドイツの産業や産業基盤(鉄道)に競って投資し、競合国の経済成長を助け、自国産業の衰退に加勢すらした。

さらに植民地への投資資金と植民者の安全確保の為と称して、植民地への軍事行動が国民の合意の下に行われることになり、帝国主義は国を挙げて行われていった。


*英国社会では何が起きていたのか
大英帝国の貿易と経済、植民地のシェアは世界で群を抜いてトップだった。
また大英帝国には莫大な資本蓄積があり、多数の大金融資本家(ロスチャイルド家)がおり、人々は繁栄を謳歌していた。

19世紀末から20世紀初頭の英国の人々の暮らしや意識を追ってみます(注釈1)。

・大都市の暮らしに憧れ、都市生活を享受した。
・その一方で地方暮らしや海外赴任を嫌い、遂には外貨を稼ぐ船員も激減した。
・添乗員兼通訳付きの海外向けパック旅行が大ブームとなった。
・国内旅行では温泉がブームになった。
・都市では展覧会、博覧会、スポーツ競技などのイベントが花盛りになった。
・古典は疎まれ、イラストの無い読み物は敬遠されるようになった。
・健康ブームとグルメブームが興った。
・理想主義、犠牲や粘り強く行うべき改革は嫌われ、「勝手気まま」が合言葉のポピュリズムが持てはやされた。

この時代は英国が築き上げた繁栄から半世紀以上が経過し、所得の増加や福祉向上が進み、都市生活が定着し、大量の中産階級が生まれていた。
しかし19世紀後半には経済が陰り始めたが、人々(中産階級)は更なる繁栄を求め、保身と海外展開に望みを託し保守化していった(注釈2)。

残念なことに、1世紀前の苦労やかつての克己心は忘れ去られ、快楽追及や利己的なものが重視されるようになっていた。



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< 6. 今繰り返されようとしている英国の世紀末 >

上のグラフは19世紀末の資本(投資利益)が労働(賃金収入)よりも如何に稼いだかを示し、凡そ7倍あった。
中央のグラフは、その結果として20世紀初頭、如何に所得格差が開いていたかを示し、両グラフから21世紀初頭も同じことが起こりつつあることを示している。
下のグラフは、最近の日本の民間資本の肥大化を示している。

この三つのグラフは、日本を筆頭に差はあるものの先進国では莫大な資本が百年前の世紀末を再現しつつあることを物語っている。


*日本と比べて
おそらくここまで読まれた方は、あまりにも現在の日本に似ていることに驚かれるはずです。
政治家、企業家や資本家、中産階級の嗜好と目指すものは両国で酷似しています。

内憂(恐慌や衰退)を国内で解決するのではなく、海外の植民地拡大に矛先を転じていました。
実は植民地政策は搾取する割には軍隊派遣や植民地への投資で赤字になるだけでなく、多くの自国民の血も流した。
現在の日本も似ていますが、1910年代の好景気を経て30年代に大陸進出する大正から昭和の初めとも似ています。

企業家や資本家はやがて保守的になり、蓄積した膨大な金融資産は国内に向かわず、海外に利を求め、国内投資は漸減し、自国の競争力は失われた。
これは国としては自分で自分の首を絞めるに等しいのですが、個々には最適な利殖行動の結果なのです。

中産階級の浮かれ具合は両国でまったく同じです。
しかも当時、この英国の浮かれ具合を古代ロ―マの衰退期と同じだと指摘した出版物が出たと言うから、歴史は繰り返すようです。

実は、もう一つ共通していることがあります。
それは社会が本当に衰退している時ほど、楽観論(衰退を無視)がまかり通るようです。


*まとめ
冒頭で述べた以下の三点について皆さんはどのように感じられたでしょうか?

A: 衰退の原因はその社会で生まれていた。

経済発展が経済(産業や金融)と社会(主力の階層)を変え、今度はこの社会が経済の不具合(業界保護と国内投資減)を制御出来なくなってしまった。


B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。

国の発展を牽引するはずの企業家や資本家は利益を求めるだけで、社会や国の衰退を顧みることはなかった。

C: 間違った手段で挽回を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

政治家や資本家は、国内経済の低迷打破に安易で国民の反発が少ない海外進出に舵を切った。
そして植民地の関係は泥沼化し、また列強との競争が激化し、やがて戦端を開くことになった。


*あとがき
英国の衰退を説明し、かつ日本の現状との類似を指摘することは難しい。
したがって、分かり易さと大きな流れを掴んで頂くために、かなりの歴史的事実や経済データーなどを割愛して、極端に論理を圧縮しています。
関心のある方は、以下の参考文献を参照してください。


次回に続きます。


注釈1: 文献「なぜ国家は衰退するのか」中西輝政著、1999年刊。
記事は主に第三章から抜粋。

注釈2: 文献「概説 西洋社会史」野崎直治編、1994年刊。
この分析は、W-17の「帝国主義時代のイギリス社会」に詳しい。

ドイツ国民がナチスに傾倒して行った過程でも、保守化した中産階級(定義は異なるかも)が主役を成した(別の文献)。


参考文献
*「21世紀の資本」トマ・ピケティ著、2015年刊。
*「新版 概説イギリス史」青山吉信共編、1995年刊。
*「図説 イギリスの歴史」昭博著、2002年刊。
*「概説イギリス経済史」米川伸一編、昭和61年刊。
  今回の英国経済衰退について最も詳しく書かれている。
*「概説世界経済史U」ロンド・キャメロン共著、2013年刊。
  今回の英国経済衰退についての要約と世界経済の関係が分かる。
*「現代のイギリス経済」中村靖志著、1999年刊。
今回の英国経済衰退について第一章に少し書かれている。
*「世界の歴史25 アジアと欧米世界」中央公論社刊、1998年刊。
今回の英国衰退期の歴史(社会、貿易、帝国主義)について詳しい。
*「世界経済の成長史1820〜1992年」アンガス・マディソン著、2001年刊。
今回の英国経済衰退について世界経済の関係が分かる。
*「イギリス病・イタリア病・日本病」中村忠一著、昭和52年刊。


posted by 学 at 15:34| 兵庫 ☁| Comment(0) | 連載中 何か変ですよ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする