2017年07月23日

フランスを巡って 28: ストラスブールからランスへ

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今回は、フランスの東北部、ストラスブールからランスまでの車窓風景を紹介します。
そこには、なめらかな起伏をもつ広大な緑の大地が広がっていました。
私達はフランスの誕生や幾多の戦いと関わりがある地を走り抜けていきました。


この日のルートについて

写真は旅行日7日目、5月23日(火)、ホテル出発8:00でランス到着12:10までの景色をバスの車窓から撮ったものです。
この日の朝は雲に覆われていましたが、走るに連れ雲が無くなり青空が広がって行きました。

このルートはアルザスの北部からロレーヌを抜け、シャンパニューに入ります。
この三つの地は順にドイツ、ルクセンブルグ、ベルギーと北側で国境を接しています。
前回紹介したように、アルザスとロレーヌはほぼ500年間、フランスとドイツ(神聖ローマ帝国、プロイセンなど)の激戦地となりました。
第一次世界大戦の西部戦線、第二次世界大戦のマジノ線をどこかで横切ることになります。
またフランス革命戦争の地ヴァルミー、晋仏戦争の地リヒテンベルクの近くを通過することになります。

シャンパニュー地方は発泡性ワインのシャンパンと、大聖堂で有名なランスがあります。
英仏の百年戦争の英雄ジャンヌダルクはシャンパニューで生まれ、ランスの大聖堂とも関わりがある。

以下の写真はすべて撮影順に並んでいます。


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< 2. 走行ルート >

地図: 上が北で、青線がランスまでのルートです。
Aはフランス革命戦争の地ヴァルミー、Bは晋仏戦争の地リヒテンベルクです。
Cはジャンヌダルクの誕生の地です。

下の写真は朝のストラスブールです。


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下の写真: 軍用車の列に遭遇した。

この近くに駐屯地があります。



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下の写真:屋根側がアルザスとは異なります。
撮影9:20.
 

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< 13. ランスに到着 >


あとがき 
私の目には、この道からの景色は豊かな自然に恵まれた平和な地としか映らなかった。

三つの国と国境を接し、紛争を重ねたことが嘘のようです。
またこの地はワイン栽培の北限であった為、他のワイン産地に負けて、打開策としてシャンパンを生み出さなけれならなかった。

またシャンパニューのランスは、ローマ帝国滅亡後、フランスの源流となるフランク王国誕生(5世紀末)時の領土の中央に位置した。


次回に続きます。

タグ:観光 紛争 自然
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2017年07月21日

フランスを巡って 27: アルザスに想う

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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。
私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。
この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。




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< 2. アルザスの地図、上が真北です >

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。
フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。
赤丸はストラスブールとコルマールです。

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。
一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。
今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。


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< 8. リクヴィル近くの村 >



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< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >
 
この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。
遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。
これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。



アルザスの運命
今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。
ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。
また多くの人種や移民が共に暮らしている。

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。
簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。



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< 10. 9世紀から11世紀の国境 >
赤の矢印はストラスブールを指す。

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。
紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。
そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。
10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。


英仏による百年戦争(1337〜1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。
しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。



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< 11. 宗教改革 >

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。
しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。
一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。
しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。
上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。
1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(〜1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。
立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。
この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。
これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618−1648年)になった。

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。
ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。
これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。


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< 12.フランス革命戦争、1792〜1802年 >

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。
これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。
初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。
赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。
また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。



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< 13. 普仏戦争、1870〜1871年 >

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。
フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。
こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。
プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。
赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。
黄矢印がリヒテンベルクです。

下の地図: 1871年の領土。
水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。




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< 14. 西部戦線、1914〜1918年 >

第一次世界大戦での西部戦線を示す。
赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。
ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。



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< 15. 第二次世界大戦、1939〜1945年 >

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。
これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。
しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。
この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。
黄矢印がストラスブール。

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。



今、想うこと
団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。
しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。
しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。
まったく私の質問が的外れだった。

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。
特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。
おそらく食事もだろう。

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。
傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。
ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。
それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。
旅は素晴らしい!!


次回に続きます。




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2017年07月20日

デマ、偏見、盲点 19: 既成概念を打破する

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世の中が保守的になってくると、人々は益々既成概念に囚われることになる。
必ずしも革新が良いわけではないが、発展が阻害されることになる。
今回は、既成概念を疑い打破することをお薦めします。
世の中を良くするヒントが見つかるかもしれません。


はじめに

人類は、長年信じられて来た既成概念を打破し、新しい取り組みを続けてこそ進歩を遂げることが出来た。
一方で大失敗をしたこともある。

既成概念を捨て新概念を生み出し成功している例を挙げます。

私有権(所有権)、訴訟権、仇討ち禁止、拷問禁止、商業手形発行、憲法制定、宗教改革、企業の無限責任から有限責任へ、<< 家族間の弁済責任(親の借金を子が弁済)の禁止 >>、三権分立、特許制度、奴隷制廃止、議会制民主主義、年金制度、所得税、累進課税、国連創設、普通選挙、金本位制離脱、軍の文民統制、労働基本権、化学兵器禁止条約・・・、ときりがない。

ひとつひとつに長期間にわたる生みの苦しみがあった。
既得権益層と新興勢力の対立、権力者と民衆の対立、国家間の対立などを乗り越え、平和や繁栄、安全、生活向上を求め大いなる決断と合意を繰り返して来た。

一方、新しい主義やシステムを過信し苦渋をなめた例を挙げます。
これは明確に失敗とは認識されていないが、人々に大きな損失をもたらしたと言える。
帝国主義、共産主義、ファシズム、2007年の世界金融危機を招いた金融手法が大きなものでしょうか。

既に見たように人類史は改革の積み重ねであり、既成のものから脱皮し続ける歴史でもありました。
その過程で失敗があっても、多くは改良し、稀に廃止することにより乗り越えて来たのです。
新規の技術や生産物は無数に生み出され、不要になったものや危険なものは使わなくなった。

それでは現実に常識として受け入れられている概念を一つ取り上げてみましょう。


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莫大な国の累積財政赤字
著名な政治家や経済学者の中には、財政健全化の為に増税するのは愚の骨頂で、むしろ赤字を拡大させてでも大幅な財政出動で、景気を浮揚させるべきだと言う。
これにより景気が良くなれば税収増となり、問題は解決すると言う。

既に日本が長年やって来た公共投資(土木・建築事業が無駄だっのかも)で赤字を増大させて来たのだが、まだ足りたいないと言う。

また、リフレ策が成功することにより経済成長とインフレの相乗効果で、いつしか累積債務が減少し、危険水域を脱すると言う。
現在、アベノミクスに、これらの良い兆しが見えていないが、成功は疑いないと言う。

ここで落とし穴があるか探ってみましょう。

当面、日本の累積財政赤字はGDPの250%程度になり、仮に危険水域は300%だとします。
アベノミクスが期待出来る一つのポイントは、インフレによって数十年後の累積財政赤字額が今の数分の1になることです。
これは単純な理屈で、順調に理想的な経済成長が実現さえすれば可能でしょう。

少し先のことを考えましょう。

今後、経済成長率よりもインフレ率が高くなると、未来の生活水準が今よりも低下することになる。
例えば経済成長率1%、インフレ率3.5%が30年続くと、生活水準は1/2になる。
この数値が逆転すれば生活水準は2倍になり、累積財政赤字額は1/3以下の可能性もある(通常、金利も上がるので赤字額の減り方は少なくなる。)。

しかしまだ以下の危険が存在する。注釈1.

*累積財政赤字の更なる増大はいつか取り付け騒ぎを起こす。
赤字はすべて国内債務で、国民は従順で国を信任し続けるはずだから取り付け騒ぎは起こらないと言う。
確率は低いが、株式や土地の暴落のパターンを見ると、信任の崩れる時が来る可能性はある。

*恐慌の影響が大きい。
日本自身でなくても中国や米国、EUで恐慌が起きる可能性を無視してはならない。
ほぼ10年毎に起きているので、繰り返す可能性は高い。
アベノミクスにより日本の経済と金融の体質(恐慌への耐性)が悪化しており、他国発の恐慌にさらに脆くなって行くと予想される。

*リフレ策で財政赤字を解消させる姿勢は、健全財政への意欲を低下させる。
政府は無駄遣いと赤字国債発行を続け、さらに日銀による国債直接引き受けが常習化することによりハイパーインフレを招くだろう。

つまり、仮に現役世代には良策であっても、未来の世代には愚策かもしれない。
私の推測では、日本の所得の推移は現役世代で横ばいか若干恩恵を受けるかもしれない。
しかし、その一方で未来世代は横ばいか悪化を経験するかも知れない。
今より国の財政・金融の体質が劣化していく可能性が高いからです。

私の推測通りに事が進むとは断言出来ないが、起こりうる不幸を考えると、以下の事が重要になる。


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我々は如何にすべきなのか
この問題の本質は、現役世代が借金で消費(浪費)して、その弁済を未来世代に押し着けていることです。
実は、このことを既成概念として我々は受容してしまっているのです。

既に見たように、人類は親の借金を子供に返済させることを禁止するようになって久しい。
数十年先の人々が文句を言わないからと言って、未来世代に弁済義務を押し付けることは、時代に逆行している。

ここでもきっと為政者達は経済の永続的な発展の為には、エゴを捨てるべきだと言うでしょう。
しかし、これを受け入れれば入れるほど、政府のモラルハザード「倫理の欠如」は劣化するでしょう。

この悪い例が、金融恐慌の度に、放埓三昧で暴利を貪った巨大金融業や金融家を数兆円から数十兆円の税金で毎回救済しなければならなかったことです。
残念なことに、現状では救済せずに倒産させると被害は更に拡大してしまいます。
これを知っているからこそ、彼らは幾度も繰り返す常習犯になってしまったのです。

当然、世代間の弁済義務を放棄する権利があっても良いはずです。
政府が行政改革をせず、湯水のように税金をばら撒き、赤字を増やし続けるなら、国民は泣き寝入りするべきではない。
本来は選挙で政策変更を勝ち取るべきですが、議員達はしがらみがあり真剣には考えない(既得権益や選挙地盤との慣れ合い、惰性など)。

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されば国民は、一点突破で国に直接猛省を促すべきです。
その方法は、皆さんが貯金を下ろすことです(本当は保険の解約も必要なのですが)。

政府が赤字国債を発行できるのは、国民の貯金が銀行や農協にあるからです。
現状では市中銀行が政府が発行する国債を引き受ける為には国民の預金が必要なのです。
これに抵抗する為に行うのです。
しかし政府発行の国債を日銀が直接引き受け続けるならば、国民の抵抗は無駄になります。
従って早く事を起こさないと、日本の将来は益々危険なものになるでしょう。注釈2.
以下のグラフにその兆候が現れています。


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現在、1年定期の利率など知れています。
まして前回の金融恐慌が2007年なのですから、どこかで恐慌がそろそろ起きても不思議ではありません。
貯金を1年ぐらい下ろしても痛くも痒くもないでしょう。
皆が一斉に1年ぐらい解約するだけで良いのです。

これによって政府は国債発行の危さを実感し、真剣に税の無駄使いと適正な税制(累進制のある所得税など)を目指し、赤字国債の発行を抑えるようになるかもしれません。
それが皆さんの孫やひ孫を救うことになるでしょう。

尚、国債解約の取り付け騒ぎは起こらないでしょう、著名な経済学者が太鼓判を押しているのですから。


大事なことは、現状を疑い、未来を真摯に憂うことです。
いつも社会の悪化は、振り返れば小さな兆しが既にあったのです。
その芽を見つけて前もって摘むことが必要なのです。




注釈1.
私はアベノミクス(リフレ策と大規模な財政出動)がまったくの愚策だとは思わない。
しかし、たとえ国民は一度好転を味わったとしても、挙げた三つの問題が発生し、従来より窮地に追い込まれる可能性が高いと考えます。
今の政府はこのことを厳密に検討せず、人気取りの為に猪突猛進しているように思える。

その典型的な悪例の一つに、幾度も指摘している「ふるさと納税」がある。
政府内で現状の返礼品競争と急増する額を施行前に予想出来る人、議員は無理でも官僚などにいたはずです。
それを官邸が抑え込んだのでしょう。
これを決断と実行の内閣と考えるのは早計です。
国民が地方自治体や民間企業を潤す良い施策と信じていることを良いことに、弊害には知らぬ振りです。
この手の姿勢、決断力と実行力をひけらかし、その実、稚拙であることが多い。
もしうまくいかなければ事実を隠蔽し、嘘をつき、過大に他を責め立てることが目立つ。

おそらくこの姿勢が続く限り、施策全体が信用出来ないものとなるでしょう。



注釈2.
本来、中央銀行(日銀)は中央政府から独立した機関であり、物価と金融システムの安定を図ることにより国民経済の発展に貢献するものです。
この目的の為に日銀は国の中で唯一紙幣(通貨)の発行が許されているのです。

通常であれば、日銀は景気刺激策の一環として市中銀行から国債の一部を買取り、通貨を銀行に供給し、間接的に国内の通貨流通量を増加させることをしてきました。
しかし、現在、上記グラフのように日銀は間接に、また政府から直接に国債を大量購入しています。

これが進むと、政府の財政規律が緩み、いつかは好きなだけ国債を発行するようになり、後にハイパーインフレが襲うことになります。

歴史的な反省から、これを避ける為に、世界では中央銀行を政府から独立した機関としたのです。
現状では、政府と日銀が一体となっているため、政府は国債発行と言うより、むしろ紙幣(通貨)を直接発行していると変わらない。
大規模な財政出動を増税無しにするには、手っ取り早い手のなのですが。

これは危険なことなのです。
単に1強では済まされない問題です。


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2017年07月19日

フランスを巡って 26: ストラスブール最後の夜

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今回は、ストラスブールの最後の夜の散策と出来事を紹介します。
わずかに夕陽の赤味を帯びた旧市街の様子、二つのレストラン、そして大型スーパーについて記します。



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< 2. 散策の概要 >

散策したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、17:00〜21:00です。
私達は最初にスーパーへ買い物に行き、一度ホテルに戻って荷物を置き、折り返し、旧市街に向かいました。

上の地図: 今回の散策ルート。上が真北です。
茶色線は大型スーパーSMに行った往復ルートです。
赤線は予約したレストランL1を目指して散策したルートで、黒線は代わりのレストランL2を経て帰ったルートです。
CAは大聖堂です。

下左の写真: 大型スーパーに行く途中で見かけたガンジーの像。
ストラスブールが幾多の紛争を乗り越え平和を獲得したことを如何にも象徴している像でした。

下右の写真: ガンジー像の周囲の花々の左奥に見えるのがショッピングモールで、このずーと奥に大型スーパーがあります。

大型スーパーはワンフロアですが非常に大きく、商品を探すのに苦労するほどでした。
ここでは主にお菓子とチーズを物色し、旅の途中なので少なめに購入したのですがミスをした。
帰国後、知ったのですが、ほとんどのチーズの正味期限が短いのです。
短いものでは1週間以内のがありました。
バルト三国でも買ったことがあり、柔らかいチーズは帰国までに形が崩れることは知っていたのですが、これには驚いた。
何種類も買って、帰国後が存分に楽しめたのですが、焦りました。

フランスを巡っていると、フランス人にとってワインとチーズは食事に本当に欠かせないものだと知りました。




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< 3. ホテルの裏手を行く >

瀟洒なアパート群が目を引きます。
運河にはボートを楽しむ人々と、のんびり泳ぐ白鳥の姿があった。



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< 4. 運河を渡る >

朝な夕なに、ジョキングや散歩する人の姿が見られた。
この都市は空気が綺麗です。



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< 5. 大聖堂が見える >

800年の長きにわたり、この鐘楼は市民の熱気と血なまぐさい闘争の歴史を見て来たことだろう。

下右の写真: ひょっとすると城門の跡かもしれない。



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< 6. 南側のイル川を渡る >



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< 7. イル川の堤を散策 1 >



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< 8. イル川の堤を散策 2 >

堤のそこかしこに、夕暮れの川風を楽しむ人々の姿を多く見かけた。



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< 9. プチット・フランス 1 >

下の写真: 右奥に船の上下用の堰(閘門)が見える。



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< 10. プチット・フランス 2 >



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< 11. レストランL2にて >

今回の旅行での私達夫婦の楽しみの一つは、日本でフランスのレストランを予約しておき、その地の雰囲気と食事を愉しむことでした。
1回目のリヨンでは成功しましたが、2回目のストラスブールではトラブルに合いました。

事前にメールで予約確認のやり取りを済ませて、予約時間に地図のレストランL1の前に行きました。
すると青年6〜8人のグループが、店の前にたむろしており、店はクローズしているようでした。
彼らの人相は悪くは無かったのですが、周囲に人通りはなく、一瞬不安がよぎりました。
意を決して、彼らをかき分けるようにして、店のドアの前に進みました。
すると彼らは残念そうに「店は閉まっています」と教えてくれました。
彼らも予約客だったようです。
おそらく私の顔はこわばっていたことでしょう。

私達は、仕方なく店から直ぐに立ち去りました。
帰国後、この店から、この前日にメールがパソコンに入っていたのがわかりました。
「申し訳ありません。急にキッチンの水道が故障したので、予約当日は閉店させて頂きます。後日、予約を頂ければ幸いです。」
後の祭りでした。
それでも、このレストランはトリップアドバイザーで人気のある地元料理(ドイツ系)の店だったので残念でした。

その後、気を取り直し、メインの通りでレストランを探し、写真の店L2に入りました。
実はこの店はスペイン料理、タパスを出すバール「BAR」です。
スペインのバルセロには2回行ったのですが、憧れのバールに入ったことが無かったので、衝動的に入ったのです。

しかし、ここでもハップニングがありました。
先ず失敗だと分かったのは、メニューを見た時です。
フランス料理のメニューは下調べしていたのですが、フランス語のスペイン料理はチンプンカンプでした。
困り果てていると、たまたま空いていた隣の席にアジア系の男性二人が座りました。

なんと彼らは日本語を話しだしました。
すかさず私は、彼らに救いを求めました。
すると一人はドイツ語なら自信があるのですが、フランス語も少しは使えるとのことで、私達の注文を手伝って頂きました。

この二人はある国立大学の先生と院生で、次の日に太陽電池の研究発表があると言うことでした。
その後、彼らと太陽電池の将来などについて話が弾み、楽しい一時を過ごしました。

旅行先での人との触れ合いは実に刺激的で楽しい。




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< 12. メインの通り >

時刻は8:30前後でした。
月曜日は多くの店が閉まるのですが、夕時を愉しく過ごす人々が通りに溢れていた。



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< 13. ストラスブールとのお別れ >

この大聖堂の姿を見ることが、ここ5年ほどの夢でした。
ヨーロッパの宗教革命の始まりや、ここ数世紀のストラスブールの苦難の歴史を調べているうちに、是非とも行きたくなっていた。
そして国境の町ストラスブールとアルザス地方を駆け足ながら直に見て感じることが出来ました。


次回は、アルザスとストラスブールについて語るつもりです。

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2017年07月17日

フランスを巡って 25: 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル

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まるで中世そのままの町がブドウ畑の中にある。
さらにアルザスワインのワイナリーが数多くある。
私達は小さな村の散策を愉しみ、ワイナリーで試飲しました。



リクヴィルについて

この町はコルマールの北方12kmほどの処にあります。

ここは小高い山が途切れ、それに続くなだらかな斜面に広がるブドウ畑にあります。
この町は縦断するメインの通りが350mほどの長さしかない小さな町です。
しかし、第二次世界大戦の爆撃を幸いにも免れたことにより、16世紀以降の家並みが町全体に残っています。

また多くのワイナリー、アルザス最大手のワイナリーなどが町の中や周囲にあり、観光客を楽しませてくれます。

ここを訪れたのは旅行6日目、5月22日(月)、14:10〜15:30です。
この日も快晴でした。






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< 2. リクヴィルの地図、右が真北です >

下の写真: 黄線はリクヴィルの散策ルートを示します。
駐車場Sに到着し、東西に延びるメインの通りをポート・オートGまで行き、少し戻ってワイナリーWに入った。
試飲が終わると、自由時間となり、私は教会Cの前を通り、村の外周の一部を歩いた。
その後、駐車場Sからストラスブールに戻った。



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< 3. 市役所と噴水 >

駐車場から最初に出会うのがこの市役所です。
この市役所のまえから西にメインの通りが伸びている。






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< 4. メインの通りを行く >

上の写真: 緩やかに上っているメインの通りを西に向かって進む。

下右の写真: 1561年に切妻壁の建物をつなげて造られた6階建ての家屋で、アルザス地方で一番背の高い木組みの家の一つです。



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< 5. 通りに面した店の顔 >

下二つの写真: アンシ作の看板。

この通りに面してアンシ美術館があります。





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< 6. ドルダー・タワー >

ドルダータワーは13世紀に壁に沿って建てられた望楼で、中には鐘がある。
非常時の警報用です。

上左の写真: メインの通りからドルダータワーを見た。
上右の写真: ドルダータワーをくぐり抜け振り返った。



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< 7. ポート・オート >

この門はドルダータワーの直ぐ外側に1500年に建てられた。
二重の重たい木からなる扉、ヨーロッパ一古いとされる落とし格子が備えられていた。

上の写真: 村の中側から見た。

下の写真: 村の外側から見た。
門の左側に壁らしいものが見える。





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< 8. ワイナリーで試飲 >

上左の写真: 試飲したワイナリーの入口。





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< 9. 教会と路地 >

ワイナリーの後は自由時間なので、私はこの路地を抜けて村の外に出ました。

下の写真: 路地から外に出るには、この写真右に見える民家にあるトンネルをくぐり抜けなければなりませんでした。



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< 10. 村の北側外周 >

村の外に出てから、外周に沿って市役所の方に回り込みました。

この時、私はやっと気が付きました、この村は単に古いワイン作りの村ではなく、堅固な城塞都市ではなかったのかと。
上の写真に見える村を囲む城壁のような家屋、下の写真に見える噴水は堀の跡ではないかと。

それであれば、既に見た二重の門、城壁のような壁の名残が合点出来る。
この最後に、リクヴィルの歴史と城塞の種明かしをします。



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< 11. メインの通り >

至るところに噴水が見られる。


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< 12. 村の南側 >

南側には、ブドウ畑の中に現代の住宅が広がっている。
この駐車場からこの村とはお別れです。



リクヴィルの歴史
この町はローマ時代に遡る。
11世紀、この地一体を寄付された修道院がブドウ畑とリクヴィールを所有した。
1269年、神聖ローマ皇帝がここに城を建設し、アルザスで一番最初に要塞化された町となった。
その後、城主は幾度も替わり、公爵の城下町として栄えた。
16世紀に住民の多くがプロテスタントへと改宗した。
1796年、フランス革命軍との戦いの結果、公爵家はリクヴィルを含むアルザスの所領を放棄し、ここはフランスに併合された。
そして第二次世界大戦中、この一帯で戦禍を免れた数少ない町となった。





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< 13. 城塞化の経緯 >

この地図から、1291年の城壁、さらに1500年、その外側に城壁が造られたのがわかる。
このことがドルダー・タワーとポート・オートの二重門が存在する理由でした。



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< 14. 1644年のリクヴィルの俯瞰図 >

これは町を東側から見たもので、手前が現在の市役所側になる。
二重の城壁と堀が見える。


私は、こののどかなアルザスの地にこれほど要塞化した村や都市が多いとは思わなかった。
今回訪れた、アルザスの三つの地がすべて要塞化されていた。
コルマールの要塞化については説明していませんでしたが、かつて城壁で囲まていた。
ストラスブールとコルマールは自由都市になっていた。

このアルザスはライン川が流れ、ドイツ(神聖ローマ帝国)とフランスの間にあって、交易上有利であったが戦火が絶えない地であったのだろう。


次回に続きます。







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2017年07月16日

何か変ですよ! 63: 近視眼的

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今、行われている施策が如何に近視眼的な術かを見ます。
これらは愚策ではあるが、繰り返される故に一層悲しい。


はじめに

ふるさと納税や核兵器禁止条約反対、気候変動取り組みのパリ協定離脱には共通するものがある。
これらは疑わない人々にとって喜ばしいことかもしれない。

実は、これらに共通するものがある。
これら施策は人々に手っ取り早く利益や安心、繁栄をもたらすと思わせる効果がある。
ほんとうにそうだろうか?

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*ふるさと納税
今、凄い勢いで寄付額が増えています。
2015年の寄付総額1700億円で、ここ数年は毎年3から4倍と加速度的に増大しています。
この理由は、この制度に高額所得者優遇の構造があるからです。

これを放置すれば、数年後には総額数兆円を越え、景気刺激策として良策ではない上に二つの問題を引き起こします。

一番の問題は、この寄付が高額所得者の消費増大ではなく節税策として使われ、その不足分を国民が広く負担しなければならいことにあります。
言い換えれば、唯でさえ税収が少ないのに、高額所得者の贅沢品(返礼品)購入費を皆の税金で補填し、税金が必要な所に届かないことです。
もう一つは、確実にゆっくり進む格差拡大です。

残念ながら、多くの人は気づかないままです。

この悪弊は高率の返礼品と節税効果(寄付)のセットにあります。
どちらかが無くなれば、弊害は無くなるのですが。

この問題のポイントは、一見、即効性のある経済浮揚策に見えるものの、効果は薄く、長期的には社会に歪をもたらすことです。
実は、この手の施策は日本、特に米国で半世紀の間にわたり積み重ねられ、これが今回のトランプを生んだ一つの要因になっています(注釈1)。


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*核兵器禁止条約の不参加
核兵器禁止条約は、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関するものです。
この条約は2017年7月7日、国連で122ヵ国により採択された。
核保有国やそれに連なる38ヵ国が反対し、16ヵ国が棄権している。
当然、日本政府は米国の核の傘に入っているので反対した。

これに対する主な意見。
米国の核兵器によって日本が守られている以上、米国を裏切ることは出来ない。
唯一の被爆国が、核兵器廃絶への道を主導するどころか、裏切っている。
核保有国が参加していない条約なんか実効性がない。

例えれば、この条約は強盗団が銃放棄を拒否しているのに、一般の人が率先して銃の不使用を宣言しているようなものです。
それなのになぜ、多数の国がこの無謀で無益と思える条約に尽力したのでしょうか?
彼らは、なぜ日本のように全人類の数倍を瞬時に抹殺できる最強の核兵器で守ってもらうことを考えないのでしょうか?(笑い)

だが、一方で不安もある。
核拡散防止条約(核保有を5ヶ国に限る条約、1968年発行)以来、核保有国は9ヶ国になり、更に増えるでしょう。
米国の核兵器で、北朝鮮の核攻撃から日本を守れるでしょうか?
守ってくれるのは迎撃ミサイルなどであって核兵器ではない。
もし核兵器に抑止力が期待出来るとするなら、米国内の銃所持は抑止力とならず、なぜ殺人の増大を招いているのでしょうか?
北朝鮮はこの条約に賛成しており、まさに張本人が抑止力を否定している。
まさに軍拡競争への皮肉です。

こうしてみると、現状を放置することは核戦争の危機を一層の深めることになると考える国があっても不思議ではない。
彼らは最強の核兵器で守られることよりも、最悪の核兵器を無くすことで、人類の安全を守ろうしたのです。
それでもなぜ核保有国などの参加が見込めない条約を成立させようとしたのでしょうか?

歴史にヒントがあります。
第二次世界大戦後の国連憲章制定時、米ソの離脱を引き留める為に、悪弊が予想された集団安全保障と拒否権の採用に多くの中小国は妥協しなければなりませんでした。
その結果、機能しない国連になったと言えるでしょう。
もっとも、米ソの離脱の方がさらに悪い結果を招いた可能性はある。
その点、今回の核兵器禁止条約ではそのようなことにならない(注釈2)。

この122ヶ国の行為、多数の中小国が大国に「ノー」を突き付けたことは、歴史上の画期と言えるでしょう。
私は、これに人類が憲法を生み出した契機となった1215年の英国でのマグナカルタを想起する。
これはほんの一歩に過ぎないが、こうして人類はより民主的な社会を推し進めてきたのです。

現状維持では改善を望めない状況で、とりあえず米国追従で条約反対に回った日本の行為は、世界が団結して平和を掴む気運を削いでしまった。
日本は唯一の被爆国なのだから、なおさらです。

この問題のポイントは、一見、平和の為と映るものの、むしろ不安要因を増大させ、さらには平和と世界の協同化を後退させていることです。


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*気候変動取り組みのパリ協定離脱
これはいつか来た道であり、また始まったのか大国のエゴと言わざるを得ない。

「米国と市民を守るという重大な義務を果たすため」
「我々は、よその指導者や国にもう笑われたくない」
「私はパリではなくピッツバーグの市民を代表するために選ばれた」
「パリ協定によって米国は国内総生産(GDP)3兆円と650万人の雇用を失う」

これはパリ協定離脱時のどこかの大統領の発言です。
この発言には、前回見た視野の狭さと狭い仲間意識が露骨に表れています。

南太平洋の島々の水没、南極やアルプスの氷河の融解は現実です。
例えば、30年後に地球の温暖化を認めてから、クーラーで地球を冷房しようとでも言うのでしょうか?
またパリ協定に合意した197ヶ国は自国の経済や雇用への影響を無視したのでしょうか?
日本を考えれば、一部の産業にデメリットはあっても全体では乗り越えて来たことがわかります。

かつての大統領や議会も自国の産業、石油・石炭産業を守る為に批准しなかったことがあった。
選挙での人気取りの為とは言え、欧米が身勝手な論拠を振りかざして大国のエゴを剥き出しにすることは今に始まった事ではないが、今の米国は世界一の経済大国だけに影響が甚大です。
単に協力しないと言うより、世界を苦境に陥れるものです。


この問題のポイントは、一見、雇用の為と見せかけるものの、実際は一部産業の保護でしかなく、世界を取返しのつつない危機へと陥れる軽挙妄動にすぎないのです。


おわりに
実に残念なことなのですが、これらの施策は国民に絶大な人気を博した国のトップが推し進めて来たことなのです。

それでは、事が失敗すれば、誰が責任を取るのでしょうか?
国のトップの軽挙妄動を断罪するのですか?
それともトップを信じた国民が断罪されるべきなのでしょうか?


皆さんならどうしますか?



注意1
米国で景気浮揚策と謳われ、半世紀の間に積み上げられた施策―金融規制緩和、課税の累進性排除、セーフティーネットの停滞、により格差が拡大し、白人労働者の状況が悪化した。
これがすべての原因ではなく、欧米先進国が共に進めて来た一連の施策の結果と言える、ただ米国が主導して来たとは言える。
これが今回の大統領選でのポピュリズムの台頭に繋がった。

日本も遅ればせながら歩調を合わせていたが、今や加速度的に追従している。


注釈2
この条約は既にある核拡散防止条約に影響を及ぼさず、また平和のための原子力を放棄している訳では無い。

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2017年07月15日

フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール


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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。
ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。
訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30〜13:40です。
この日も快晴に恵まれました。



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< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。
このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。
番号1〜12は写真で紹介するスポットです。



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< 3.バスから見たコルマール >

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

下の写真: Place Rapp。
フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。



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< 4. プチットベニス >

上と下左の写真: 地図番号1。
小舟の遊覧船が発着していた。




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< 6. 運河沿い >

下の写真: 地図番号2。
右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。



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< 7.旧税関 >

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。
シュウェンデイの噴水の広場に面している。
屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.
シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。


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< 8. バルトルディ美術館 >

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

右下の写真: 店の看板。地図番号10.
アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。
これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。






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< 9. 商人通り >

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。
地図番号4.

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.



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< 10. サン・マルタン大聖堂 >

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。
これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。
つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。
ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。
両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。
これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。


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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.
私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。



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< 12. 運河、地図番号12. >

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。



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< 13. レストラン >

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。
コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。


次回に続きます。

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2017年07月13日

フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2

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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。
この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。



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< 2. ノートルダム大聖堂 >

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。





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< 3. 正面 >

聞きしに勝る高い尖塔です。
赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。
ゴシック建築の特徴が良く表れている。

下の写真: 中央の入口。


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< 4. 正面中央入口の彫刻 >

正面中央の入口の彫刻。
無数の彫刻で埋め尽くされている。

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。
キリストの生涯が描かれている。

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。


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< 5. 内部 1 >

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。
下の写真: 側面。
側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。



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< 6. 内部 2 >

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

左下の写真: 側廊を見ている。

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)




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< 7. 天文時計 >

左上の写真: 大オルガン。

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。
大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。
最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。
この右に天文時計がある。

下右の写真: 高さ18mの天文時計。
毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。
この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。
これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。



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< 8. 正面右手の入口 >

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

右上の写真: 尖塔の先。
八角形をした不思議な形をしている。

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。
右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。



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< 9. ロアン宮 >

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。
18世紀の司教の宮殿。
テラスの直ぐ前をイル川が流れる。



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< 10. イル川  >

上の写真: イル川の桟橋。
下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。



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< 11. イル川に架かる橋から >

上の写真: 下流(東側)を望む。
遊覧船がここから発着している。
左手直ぐ奥にロアン宮がある。

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。
12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。



ストラスブールとノートルダム大聖堂


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< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。



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< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

フランスの代表的な教会建築を示す。
色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。
赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。


ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。
これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。
これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。
それまではロマネスク様式でした。
一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。
しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?
4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。
ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。
ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.
こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。
途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。
この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。
そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。
残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。


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< 14. 15〜16世紀のストラスブール >

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。
下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。


この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。
そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。
他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。
この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。
既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。
このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。


次回に続きます。



注釈1
ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

注釈2
ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。
これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

注釈3
これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。
しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。



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2017年07月11日

何か変ですよ! 62: 偏狭なものの見方

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今回は、巷に溢れる偏った歴史観を取り上げます。
日本の憲法や敗戦に関わる問題をみます。




結論は・・
一見、ここでも右派と左派、またはタカ派とハト派の違いがあるように見える。
しかし、より重要なのは単純に視野が狭いか広いか、より広い範囲の他者の気持ちに寄り添えるかです。

こうは言っても、視野が広いとは何を指すのか、また他者とは誰なのかは人によって異なります。
ここでは二三の例を挙げ、簡単に視野の狭さや他者との境界を指摘しながら、偏狭なものの見方の悲しさをみます。


ある人々が言い募る説とは
第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦にまつわる恨み節が、今またぶり返している。
当時の米国による酷い仕打ちを盛んに言い募っている。
さらに言えば、相も変わらず侮辱感に囚われたままで、そこから脱皮出来ないようです。

「日本国憲法はマッカーサーの押し付けで、不当だ!」
「東京裁判は勝者による報復の茶番劇だ!」
「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」

目立つのは、こんなものでしょうか?
これからの話は、あまりまじめに考えて頂かなくて結構です。
どこに可笑しさがあるか判って頂ければ充分です。


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何が変なのか?
敗戦時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本の占領政策を推進し、様々な改革を行った。
GHQを取り仕切ったのは米国のマッカーサーでした。
彼は公の場で「日本人は12歳だ」と発言していた。

そして、彼が日本国憲法案を日本に押し付けたとされている。
ある人々は、これを日本人が考えた憲法では無いから、けしからんと言い、作り変えるべきだと言う。

しかし、私はこれを聞いて不思議に思う。
当時、大日本帝国憲法(1889年公付)を後生大事に守り大失敗をしておきながら、明治に始まる神権的な前近代的制度から抜け出せずにいた為政者達が、果たして現代に通じる民主的な憲法を発案出来ただろうか?

確かに市井には進歩的な草案もあったが、政府は受け入れるはずもない。
軍事大国化し大陸進攻を図る過程で、反対する声は一部にはあったが、もみ消されたように。

情けないことなのだが、当時、日本の体制が自ら民主的な憲法を作り出すことは困難だったでしょう。
地主制、女性の選挙権などをみれば如何に遅れていたかが一目瞭然です。

それでは同じ占領されたドイツ(西ドイツ)はどうだったのでしょうか?
ドイツは第一次世界大戦の敗北を経験して、当時世界で最も民主的なヴァイマル憲法を1919年に制定していた。
これがあって、第二次世界大戦後の分断された占領下にあっても、各州代表による憲法制定会議が開催され、連合国によって批准されたのが今の憲法です。
つまり、下地が既に出来ていたのです。


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可笑しさはこれだけに留まらない
それほど屈辱感にさいなまれるなら、そんな横暴な米国の庇護の下から離脱すれば良いと思うのは私だけでしょうか?
安保法制、為替などの経済・金融政策、特定秘密保護法など、どこまで米国追従に深入りしていくのか?

ある人々は、現在の「寄らば大樹の陰」は必要だが、かつての横暴な仕打ちだけは許せないと言う。
この手の人が言う大人の態度とは、どちらも結果が良ければ良しだと思うのですが。

さらにこんな反論が出るかもしれない。
今の米国とかつての米国は違うはずだと!
少し、話が怪しい。

世界を見れば、侵略国や戦勝国の態度はどこも似たり寄ったりでした。
植民地支配された国は、当時、欧米から尊敬されたでしょうか?
もちろん侮蔑され差別された。

戦勝国は、占領国に対して侮蔑感をまったく持たずに接したでしょうか?
一部にはいたでしょうが、大勢は憎しみとの裏返しで侮蔑感を持つものです。
それが戦争です。
日本人も大陸に進攻し、現地を支配するようになると同じ轍を踏んでいった。

つまり、この屈辱感は何時でも何処でも敗者が勝者から受けるものなのです。
よくもまあ自国のことは棚に上げる身勝手な神経が私には理解できない。

もっとも、自分達の懐古趣味(天皇制や明治時代への回帰)を満足させるために難癖をつけているだけとしたら、これも悲しい。


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この御説はどうでしょうか?
東京裁判への批判も同様に狭量で身勝手な感情の基づいたものがある。
「戦犯はでっち上げで、無実だ!」と。

もし、連合国側が強硬に裁判を開き、戦時下での事実を公開しなければ、日本の国民は未だに真実を知ることはなかったでしょう。
当然、この裁判にはパール判事らが指摘したような問題―事後法の適用と植民支配の反省を棚上げする大国、がなかったとは言えない。
しかし、戦争事態が超法規的な行為であり、場合によっては事後法も止む得ない。
どちらにしても、当時、問題を含みながらも、世界が戦争の再発防止に協同し、従来よりは一歩前進した。

ここで指摘したいことは、同じ戦犯裁判(ニュルンベルク裁判)を受けたドイツの変化です。
これが行われていた当時、ドイツ国民は概ねヒトラーに騙された被害者としか考えていなかった。
しかし、それから十年ほどど経つと、国民の中から自らも戦犯を裁くべきとの世論が沸き起こった。
そして、真にヒトラーやナチスとの決別を図ることが出来たのです。

一方、日本はどうでしょうか?
いまだに、外国(主に米国)の謀略に嵌ったと言う被害者意識から抜け出せない人々がおり、さらに悪いことに、これら人々に支えられた人物が政治のトップになることが出来たのです。

実に、不思議な国があるものです。



さらに、これはどうでしょうか?
もっと単純な例として「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」があります。

結論から言うと、日本人の平和感は先天的です。
これは日本列島の地政学的な理由、歴史的に日本海の軍事的な障壁と唯一の大国中国からの距離に依存していた。

GHQが軍国主義復活を恐れて、平和の礎を強制的に植え付けようとしたのは確実です。
しかし、それが戦後70年を経た今まも、悪霊に取り付かれたかのように言うのは、国民を馬鹿にしている。

逆に言えば、米国の軍事戦略に乗って、日本を極東の防波堤にしようとする手段に利用されているように思える。

もし、70年前の出来事が、一国の心を支配し続けるとしたら、日本がかつて支配した東アジアの国々も同様に恨みを持つ続けることになりますが?
おそらく「米国の洗脳だ!」と指摘する人々は、これとは違うと言い逃れるでしょう。


まとめ
ざっと諸説の可笑しさを見て来ました。
何が可笑しさを生み出しているのでしょうか?

一つは「自分が、自分が、・・・・」にあります。
別の言い方をすれば、狭い身内、広くて日本列島本島(大和民族)しか念頭にないからです。
このような考え持つ人は、身びいきで、同調する人や付き従う人々には寛大で有難い存在です。
つまり、他者との境界が非常に狭いのです。

もう一つもこれと関連すのですが、都合の良い事実しか見ないのです。
つまり、世界の歴史は当然、都合の悪い自国の歴史も否定します。

おそらく最も本質的な事は、他者への共感が苦手なのでしょう。
この手の人々は身内には共感出来るのですが、地球の裏側の人々への共感が無理なのでしょう。
これは本質的な心性のひとつです。

分かり易い例があります。
実は動物は、本来、同種であっても縄張り外の者(他者)に対して敵意をもつように進化しました。
一番、鮮明なのはチンパンジーです。
チンパンジーは同じ群れであれば、最高度に協同して狩りなどを行います。
しかし、部外者が縄張りの近く現れると、大声で恐怖の声を挙げ、下痢をしながら飛び回るのです。

しかし、進化した人類はこれと異なり、縄張り外(国外)の人、言語や人種の違いを乗り越えて協力することができるからこそ、今の発展があるのです。
時たま、チンパンジーより残酷になるのがたまに傷ですが。


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*5



最後にお願い
どうか皆さん、くれぐれもおかしな風潮に流されないでください。

posted by 学 at 13:27| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載中 何か変ですよ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1

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*1


いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。
プチットフランスと大聖堂が有名です。
今回は、前半を紹介します。


なぜストラスブールに惹かれたのか?

以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。
さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。
その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。
この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。



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< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30〜10:20頃です。
この日も素晴らしい天気でした。
青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1〜9を見て、下の地図のEを通りました。
その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 

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< 3. クヴェール橋 >

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。
上の写真から順次、北から東の方を見ている。

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。
こちらの川が南側を流れるイル川です。
ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。
この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。
戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。
きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。
だが、後で私の勘違いとわかりました。

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。
1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。



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< 4. ヴォーバンダム >

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.
13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。
右手のガラスの建物は近代美術館。

下の写真: ヴォーバンダムの内部。
私達はそのアーチの上を歩いている。
写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、
1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。



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< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。



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< 6. プチットフランス 1 >

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。
これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。
この景観は16〜17世紀に始まる。

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。
その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。
またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。
どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。
この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。



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< 7. プチットフランス 2 >



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< 8. プチットフランス 3 >

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。
川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。






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< 9. 通り 3 >

地図番号4から5の間の通り。



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< 10. サン・ト―マ教会 >

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。
そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。
そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。
その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。




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< 11. グーテンベルグ広場 >

グーテンベルグの像が立っている。
彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。
この広場はこれを記念したものです。

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434〜1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。
その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。
またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

後半は、次回紹介します。


ストラスブールの城郭について
帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。



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< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

上の地図: Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。


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< 13. ストラスブールの城郭図 >

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.
この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。
現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。
中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。


中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。
上の俯瞰図の平面図と考えられる。
Pがプチットフランス、Cが大聖堂です。

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。
この時期になると、更に城郭は拡大している。

Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。
ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。
ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。
17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。
これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。
これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。


次回に続きます。
posted by 学 at 07:50| 兵庫 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載中 フランスを巡って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする